第二次世界大戦の解説(3)

2022/10/13 01:25

こんにちは、三つ目の解説です。まだ1めと2めを見ていない方はそちらを見てからこの解説をお読みください

1944年


1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間に及ぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日に夏季攻勢(バグラチオン作戦)が開始され[注釈 7]、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、さらにソ連軍はバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。

モンテ・カッシーノ修道院跡(1944年5月)

1月17日にイタリアのモンテ・カッシーノで、連合国軍のイタリア戦線における、ドイツ軍のグスタフ・ライン(英語版)の突破およびローマ解放のための戦いが開始された。

2月15日にカッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し修道院は破壊された。ブラジル軍も参戦し、5月19日に連合国軍は勝利する。

D-デイのノルマンディー上陸作戦でオマハ・ビーチに接近するアメリカ軍(6月6日)

一方、本格的な反攻の機会を窺っていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍の指揮の下、北フランス・ノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻を目的としたオーヴァーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出しながらフランスに上陸した。

ノルマンディー在住の民間人に多数の犠牲者を出し[19]、女性たちは強姦された[19][20]。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。この上陸の2日前、6月4日にイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。

連合軍のフランス上陸を許すなど敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により、ヒトラー暗殺計画が決行されたが失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。また、国民的英雄エルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した[注釈 8]。

またこの頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。なお、7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。

ドイツ軍は、フランス上陸後の連合軍の進撃を辛うじて食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦の結果、ついにドイツ軍の戦線を突破し、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。8月頭にイギリス軍やカナダ軍、アメリカ軍を筆頭に連合軍は東へ進み、パリ方面へ進撃を開始した。

解放されたパリ(8月25日)

自機の下で語らうアメリカ陸軍航空隊のエース・パイロットのウェンデル・O・プリューイット大尉

ドイツ軍も8月7日にディートリヒ・フォン・コルティッツ歩兵大将をパリ防衛司令官に任命しパリを防衛するも、8月16日には南フランスにも連合軍が上陸し(ドラグーン作戦)、ドイツ軍のパリ防衛も時間の問題であった。

ヒトラーはパリが陥落する際、パリを焼きつくして撤退するよう言明した。パリを防衛するドイツ軍は崩壊し、8月25日に自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。しかしドイツ軍はヒトラーの指令に反しパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。フランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。

フランスを占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行した。さらに、ココ・シャネルのようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、スイスなど国外へ亡命する者もいた。

8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。

また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦でハンガリー全土を占領、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田の喪失でついにドイツの石油供給は逼迫する。

バストーニュを行軍するアメリカ陸軍第101空挺師団(12月31日)

9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。

またこの頃、ドイツ軍は、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262やジェット爆撃機アラドAr234、同じく世界初の飛行爆弾V1、次いで世界初の弾道ミサイルV2ロケットなど、開発中の新兵器を次々と実用化し、実戦投入した。しかし、西からイギリスとアメリカ、東からはソ連を中心とした3か国の圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるのは、ドイツ1国ではもはや不可能だった。

10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使するほか、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[21]。

その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で反攻(バルジの戦い)を試みた。アルデンヌ地方の冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍はパニック状態に陥り、ドイツ軍により戦線は一時的に約130km押し戻された。

また、オットー・スコルツェニー指揮のコマンド部隊がアメリカ軍に偽装し、後方撹乱を行った。しかし、ドイツ軍は連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合軍の反撃で後退を余儀なくされる(バストーニュの戦い)。

1945年


1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。

1945年2月、ヤルタ会談にて、左からウィンストン・チャーチル、フランクリン・ルーズベルトおよびヨシフ・スターリン

ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦および南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。

1月にはイタリア社会共和国 (RSI) 軍の攻勢終了によって再び防戦へと戻り、ムッソリーニは厳冬の中で絶望的な戦闘を続けるRSI軍の前線を訪れ、閲兵式を行って兵士達を激励している。少年兵を含めた兵士達はムッソリーニの期待に応えて希望の失われた状況下で戦いを続け、冬の間は連合軍の攻撃も停滞した。しかし春を迎えた4月になるとゴシックラインは完全に突破され、C軍集団とRSI軍はポー川ラインにまで戦線を後退させ、ミラノでの市街地戦が視野に入り始めた。これを裏付けるようにムッソリーニも「ミラノを南部戦線のスターリングラードにしなければならない」と演説している。

ベルリン郊外の赤軍の砲兵(1945年4月)

西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。

ハンガリーでは1944年12月に赤軍・ルーマニア軍によってブダペストが包囲され、1945年2月13日に残存していたブダペスト防衛部隊が無条件降伏した。ソ連軍はここでも一般兵士から将官までもが略奪・暴行に参加し、10歳から70歳まで、およそ目に付くほとんどの女性が強姦された[22]。ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(ネロ指令)を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。

これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に立てこもり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。

ベルリンの戦い(1945年4月)

4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され(ベルリンの戦い)、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンの総統地下壕から動こうとしなかった。

4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲した(詳細はベルリンの戦いを参照)。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵や、まともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。

詳細は「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」を参照

ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。

一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザンの蜂起により、4月25日、C軍集団はイタリア臨時政府・国民解放委員会 (CLN) の代表団との直接会談に望んだが、C軍集団の休戦交渉を知ったCLNは無条件降伏の要求以外は受け入れなくなった。ムッソリーニは会談の中でC軍集団の降伏交渉について知らされ、最後の最後にヒトラーから裏切られたと感じた。しかし2日後に総統地下壕のヒトラーから戦局の逆転を確信しており、「独伊同盟の最終的勝利」に希望を持っているという電報が届き、ヒトラーもまた周囲から欺かれていることを知った。ここにイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。

ミラノで吊るされたムッソリーニの死体

ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。捕えられた一行はムッソリーニと愛人ペタッチ、それ以外の閣僚や将兵と分けられ、残されたムッソリーニはペタッチと共にミラノ方面へ車両で移動させられ、しばらくの間ジャコモ・デ・マリアという人物の所有する民家に幽閉されている[23]。

程無くしてパルチザンはムッソリーニについても略式裁判による即時処刑を決定、ムッソリーニはミラノ近郊のメッツェグラ市の郊外にあるジュリーノ・ディ・メッツェグラ(英語版)に設置された処刑場へ護送された。4月28日の午後4時10分にペタッチと共に射殺され、懸念されうるムッソリーニの生存説を払拭することや、依然として残る威厳を失わせることを図って、その死を公布することを計画した。ドンゴで射殺された何人かの重要な幹部の遺体と一緒にムッソリーニの遺体を貨物トラックに載せ、辺境のメッツェグラ市から主要都市の一つであるミラノ市へと移送した。

4月29日朝、ミラノ中央駅にトラックが到着すると駅にある大広場であるロレート広場の地面の上に遺体を投げ出した[24][25]。続いてパルチザンは反乱者への見せしめである「遺体を建物から吊るす」という行為への意趣返しとして逆さ吊りにした。括り付けられたのはスタンダード・オイル社のガソリンスタンドの建物だった[26]。ただし逆さ吊りについては中世時代に行われていた懲罰を再現したという説や、むしろこれ以上死体が損壊することを避けたという説もある[27](ベニート・ムッソリーニの死)。イタリア駐在のC軍集団も5月4日に降伏している。

ヒトラーの死を伝える『星条旗新聞』号外

ムッソリーニが殺害された2日後、4月30日15時30分頃にヒトラーは、ベルリンの総統地下壕で前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って総統地下壕脇に掘られた穴で焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官に海軍元帥デーニッツを、首相に宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを、ナチ党担当相および遺言執行人に党官房長マルティン・ボルマンを指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。

イギリス軍とアメリカ軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ドイツの犯罪が明るみに出された。なお先にドイツ軍を駆逐したソ連軍は各地で行われていたホロコーストを先に知っていたが、イギリス軍とアメリカ軍はこれをソ連のプロパカンダと思い信じなかった。

またソ連が新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。

5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたといわれている。女性、果てや8歳の少女までもが強姦され、犠牲者総数は数万から200万と推測されている[28]。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた女性のうち、その後、約10分の1の女性が死亡し、その大半が自殺だった[29]。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。

その後


ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったカール・デーニッツ海軍元帥はフレンスブルクに仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍と政府は連合国に無条件降伏することが決定した。これはドイツ政府と軍による完全な無条件降伏であった。

アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書 (en))。翌午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト (Karlshorst) の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。なお日独伊三国同盟には、降伏前に同盟国の日本と協議を行う決まりであったが、いまやドイツは日本政府と協議する余裕はもうなかった。

なお連合国はフレンスブルク政府に対し、政府としての承認は行わなかった[30]。5月23日には全閣僚が連合国に逮捕され[30]、その機能を失った。その後6月5日のベルリン宣言により中央政府がドイツに存在しないこと(中央政府=ナチ党であり、ドイツ国の降伏とともに消滅したこと)が確認された。敗戦後に中央政府がドイツに存在しない点は、敗戦と占領後に中央政府が存在し続けた日本と大きく異なる。

これによりドイツ国、イタリアの2国の枢軸国が連合国側に降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。その後も欧州では小規模かつ局地的な戦闘は続いたものの、国家間での戦闘行為は最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国による東南アジアと東アジア、太平洋地域のみとなった。

停戦後[編集]

観衆に手を振るチャーチル(1945年5月8日)

5月8日午後11時1分に停戦が発効され、8日と9日の2日間はヨーロッパ全土は祝日となった。各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はドイツが無条件降伏したにもかかわらず、プラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様であり、戦時国際法に明らかに違反するものであった。

ドイツ占領下のノルウェー南端から日本へ向かっていたドイツ海軍のUボート「U-234」が、大西洋上でアメリカ海軍の艦船に降伏しようとした矢先の5月14日に、便乗していた庄司元三と友永英夫の2名の海軍中佐が服毒自殺した。2人の持ち物の中には、当時日本も開発していた原子爆弾の開発に欠かせないウラン235が560キログラム含まれていた。

なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人、ファシスト党員が、潜水艦や船舶、徒歩でバチカンやスペイン、ポルトガルやノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリやボリビアなどの南アメリカ諸国に逃亡し、その後も数千人が身分を隠して逃亡を続けた。またナチス親衛隊員やドイツ軍人が、残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの報道もあったが、これは上記のような事件と混合した誤りであった。

ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[3][31]。

この後、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦諸国の将兵が残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。

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