【十年祭ノベル】黄昏色のフォーラム 第一話

6 2025/06/13 20:31

先・田中裕洋

カーテンの隙間から差し込む、都会の薄汚れた朝日が、橘湊(たちばな みなと)の意識を現実に引き戻した。重たい瞼をこじ開けると、見慣れたワンルームの天井がぼんやりと霞んで見える。昨夜も遅くまでモニターの光を浴びていたせいか、目の奥が鈍く痛んだ。身体を起こし、ベッドサイドに置いたままのマグカップに残っていた冷たいコーヒーを呷る。苦味が乾いた喉を刺激し、ようやく思考がゆっくりと回転を始めた。

湊の日常は、単調な繰り返しだ。フリーランスのWebエンジニアとして、クライアントから請け負った案件をこなし、納品し、また新たな案件を探す。人との直接的な関わりは極端に少なく、コミュニケーションのほとんどはメールかチャットツール越し。それが気楽でもあり、同時に底知れぬ孤独を育んでいることも、湊は自覚していた。

壁際に追いやられた小さなテーブルに向かい、ノートパソコンを開く。まずはメールチェックと今日のタスク確認。それが終わると、彼は決まってあるサイトを開く。ブラウザのブックマークバー、一番左端に鎮座するその場所こそが、橘湊にとって、現実から逃避するための、そして彼自身が「王」として君臨する唯一無二の「城」――匿名コミュニティサイト「投票トーク」だった。

カタカタと軽いキーボード音を立て、彼は「投票トーク」の管理画面にログインする。赤い通知マークが数件。新しい投票テーマへのコメント、ユーザーからの問い合わせ、そして、彼が最も気にかける「お知らせ」への反応だ。

『みんな、おはよー!運営さんだよっ!(`・ω・´)ゞ なんか最近、朝晩ちょっと肌寒くなってきたよね?風邪とか引かないように気を付けてねー! あ、そうそう、週末にちょっとサーバーメンテするかもだから、また詳細は連絡しまっす! みんなもなんか面白い投票テーマあったら、ガンガン提案してちょ!「珍個くん」も新しいネタ待ってるらしいぞw じゃ、今日も一日、投票トークでまったり楽しんでってねー!\(^o^)/』

数時間前に投稿した、いつもの砕けた調子のお知らせ。昔はもっと四角四面な文章だったが、いつからかこんなふうに、ユーザーに友達のように語りかけるスタイルが定着していた。「昔はカタめだったけど、最近は結構慣れ親しんで(←?)きたよね、運営さんw」というユーザーのコメントを見つけて、湊は思わず口元を緩ませる。「これ、一回言ってみたかったw」――そんなノリが、このサイトの空気を作っている。彼が十年という歳月をかけて、丹精込めて作り上げてきた、緩やかで、どこか現実離れした「楽園」だ。

2015年に、まだ大学生だった湊が、ほんの気まぐれと技術的好奇心から立ち上げたこのサイトは、今や彼にとってなくてはならないものになっていた。当時、人間関係に不器用で、現実世界にうまく馴染めなかった湊にとって、匿名で誰もが自由に意見を交わせるこの場所は、唯一心を開けるシェルターだった。そして、そのシェルターの創造主であり、管理人である「運営さん」という役割は、彼にささやかな自信と存在意義を与えてくれた。

「今日のピックアップ投票は…『秋といえば、食欲?読書?それとも…?』か。ベタだけど、盛り上がりそうだな」

湊は管理画面を操作しながら、ユーザーたちの活発なやり取りに目を細める。下らない雑談、真面目な議論、時にはくだらない下ネタも飛び交う。彼はそれを「自由」として許容してきた。「珍個くん」という、どうしようもない下ネタ系マスコットキャラクターを公式で使い続けているのも、その表れだ。「運営者も小中学生なのかな?」なんて揶揄されることもあるが、それもまた、このサイトの愛すべき個性だと湊は思っている。

ふと、あるコメントに目が留まった。ハンドルネーム「しおり」。彼女は、この「投票トーク」の初期からのユーザーだった。

『秋といえば、私は金木犀の香りを思い出します。短い期間しか楽しめないからこそ、その香りに触れると、過ぎ去った夏の余韻と、これから訪れる冬の気配を感じて、少し切なくなりますね。読書もいいですが、そんな風に季節の移ろいを肌で感じる散歩も素敵だと思います。』

「しおり」のコメントは、いつもそうだ。派手さはないが、言葉選びが丁寧で、どこか詩的で、そして何よりも他者への配慮が感じられる。荒れがちな議論を鎮めたり、誰かの些細な悩みにそっと寄り添ったりする彼女の書き込みは、湊にとって、この混沌としたサイトの中で一際輝いて見える灯台の光のようだった。

「…金木犀か」

湊は呟き、窓の外に目をやった。コンクリートジャングルに金木犀の木などあるはずもないが、彼女の言葉を読むと、ふわりとあの甘い香りが鼻先を掠めたような気がした。他のユーザーからの「しおりさん、今日も素敵ポエムあざっす!」「わかるー!金木犀ってなんかエモいよね!」といった賑やかな返信が続く中、湊は彼女の最初のコメントを何度も読み返してしまう。

いつからだろうか。「しおり」の言葉が、これほどまでに湊の心を捉えるようになったのは。彼女の投稿を見つけると、無意識に目で追い、その言葉の奥にある感情を読み取ろうとしてしまう。運営者として公平であるべきだと頭では分かっていても、「しおり」からのメッセージには、他のユーザーとは違う特別な何かを感じずにはいられなかった。それは、孤独な王が、自分の城の中に偶然見つけた、秘密の花園のようなものだったのかもしれない。

「運営さん」としての仮面を被り、彼は「しおり」のコメントにも、他のユーザーと同じように「金木犀、いいよねー!あの香り、なんかキュンとくる!運営さんも散歩しよっかなー(ただし三日坊主w)」と、努めて軽い返信を打ち込んだ。その数秒後、「しおり」から「運営さんもぜひ!きっと新しい発見がありますよ」という、優しい絵文字付きの返信が届き、湊の胸が微かに温かくなるのを感じた。

しかし、その温もりは長くは続かない。

夜が更け、クライアントワークも一段落し、部屋の明かりを消してベッドに潜り込むと、決まってあの記憶の断片が湊を襲う。それは、鮮明な映像ではなく、胸を抉るような感情の奔流だ。

――燃え盛る炎。罵詈雑言の嵐。信じていたはずの誰かの冷たい瞳。裏切り。絶望。そして、自分が作り上げたものが、自分の手で壊れていく音。

「う…っ!」

湊は呻き声を上げ、布団を強く握りしめた。十年近く経つというのに、過去に運営していた別のコミュニティサイトが、大炎上の末に閉鎖に追い込まれた時の記憶は、未だに鮮明な悪夢として彼を苛む。「投票トーク」を絶対に守り抜きたいという執着にも似た感情は、このトラウマから来ているのかもしれない。あの時のような失敗は、二度と繰り返したくない。だからこそ、彼は「運営さん」という完璧な仮面を被り続け、ユーザーとの間に見えない一線を引いている。たとえ、それが孤独を深めることになったとしても。

過去の「罪」の意識は、まるで鉛のように湊の心に沈み込んでいる。その重みに耐えきれなくなると、彼は再びノートパソコンを開き、「投票トーク」の世界へ逃避する。そこでは、彼は「王」であり、ユーザーたちは彼の言葉を待ち望んでいる(ように見える)。そして、そこには「しおり」がいる。彼女の言葉は、暗い水底に差し込む一筋の光のように、湊の心をわずかに照らしてくれるのだ。

今日もまた、眠りにつく前に「しおり」の過去の投稿をいくつか読み返す。彼女の紡ぐ言葉の一つ一つが、まるで鎮静剤のように、湊の荒ぶる心を静めていく。

『どんなに暗い夜でも、必ず朝は来るって信じています。小さな星の光を見失わないようにしたいですね。』

その言葉を読んだ時、湊は無意識に涙が一筋頬を伝うのを感じた。

「投票トーク」という閉じた楽園。その王である橘湊は、今日もまた、匿名の仮面の下で、誰にも見せることのない孤独と、淡い、しかし決して手の届かない特別な感情を抱きしめながら、夜明けを待つのだった。この楽園が、いつか終わりを迎えるかもしれないという漠然とした不安を、心の奥底に押し隠して。

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タグ: 十年祭ノベル 黄昏色 フォーラム

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