対価は桜の便りにて
二月の風は、刺すように冷たい。
都立図書館に併設されている学習室。窓際の席で、高校3年のレンは志望大学の入試過去問題集 -いわゆる赤本-と格闘していた。
「お、今日も頑張ってるね。そんな受験生くんにはご褒美をあげなくちゃ」
視界の端に、丁寧にラッピングされた小さな箱が置かれる。顔を上げると、そこには大学の冬休みを利用して学習支援ボランティアに来ているユイが、いたずらっぽい笑みを浮かべて立っていた。
「……ありがとうございます。でも、これを受け取ると、ホワイトデーに『お返しを期待されている』という心理的負債を抱えることになるんですが」
レンはペンを置かず、淡々と答えた。彼は自他共に認めるリアリストだ。
「君ってば、相変わらず可愛くないこと言うね」
ユイは苦笑しながら、向かいの席に腰を下ろした。彼女はレンが志望する大学の文学部に通う、自他共に認めるロマンチストだ。
「これはただのチョコレートじゃないんだよ。カカオの香りに閉じ込められた、私からのささやかなエール。目に見えない想いを形にするのが、バレンタインという儀式の美しさだと思わない?」
よくそんな歯の浮くような言葉を言えますね、とレンはため息をついた。
「思いませんね。結局は製菓メーカーの販売戦略に乗せられ、経済活動に貢献しているだけです」
「戦略だとしても、その波に乗って誰かを想うきっかけができるなら、それは素敵なことだよ。例えば……」
ユイは窓の外、夕焼けに染まり始めた中庭を指差した。ベンチには寄り添う男女。その手には有名チョコレート専門店の紙袋がある。
「今、この瞬間に世界中で何百万通りの『好き』がやり取りされている。そのエネルギーを想像してみて。冬の凍てついた街が、誰かの体温で少しだけ温かくなるんだ」
レンは鼻で笑った。
「その体温とやらは、ただの化学反応による代謝熱です。それに、糖分を摂取して一時的に幸福感を得られるのは、単なる脳内物質の作用でしょう」
ユイは、彼のいかにも理系男子らしい言葉をにっこりと笑って受け止めた。
「じゃあ、実験してみようか」
彼女は箱を開け、中から一粒のトリュフを取り出した。
「あ……」
レンが制止する間もなく、ユイはその一粒を彼の口元へ運ぶ。
「糖分補給。提供されたリソースは有効活用すべき、でしょ?」
ユイはレンの口調を真似て言った。反射的に口を開けてしまったレンはそのままチョコを噛みしめる。濃厚なカカオの苦味のあとに、キャラメルの甘みが追い打ちをかけるように広がった。
「……美味い」
「でしょ? ちなみに、それは私が今朝作ったんだ。君の合格を祈って、一時間かけてテンパリングした」
レンの手が止まった。
「……手作り?一介の高校生に、わざわざ一時間もかけて?」
「そう。一介の高校生に、ただのボランティアが、わざわざ一時間もかけて。効率を考えたら買ったほうが早いし、綺麗だ。でも、無駄だと思える時間にこそ、人は心を込める。これが私の、君への『特別』の証明だよ」
レンは急に耳の裏が熱くなるのを感じた。きっとこれは暖房のせいでも、血糖値のせいでもない。目の前の優しい眼差しから逃げるようにレンは視線を逸らした。彼の優秀な頭の中にある論理回路がショートしていく。
「……ユイさん。一つ、訂正させてください」
「ん?」
「ホワイトデーのお返しをするだけでは、等価交換として釣り合いません。俺の……第一志望の合格通知を添えるなら、対価としては妥当でしょうか」
ユイは目を見開き、それからふわりと笑った。夕陽に照らされる彼女の笑顔を見て『女神みたいだ』と柄にもなくレンは思った。
「ふふ、それは随分と熱烈な口説き文句だ。でも、遠回しすぎてロマンチックさには欠けるね。そこはちゃんと『あなたと同じキャンパスに通いたい』って言わなきゃ」
「っ、べつに、口説き文句じゃないんだが…!」
「あっはは! そうね、私は少しからかっただけよ?」
ユイは席を立ち、ふわりと香水の香りを残して背を向けた。
「期待して待ってるよ、レン君」
じゃあね、今日はそれを渡しに来ただけだから、と彼女は軽く手を振って去っていく。レンは呆然とその後ろ姿を見送った。
(――名前。はじめて呼ばれたかも)
今まで「君」とか「受験生くん」とかだったのに。最後に不意打ちで呼ばれた名前が、熱を持って鼓膜に残る。レンは汗の滲む手でペンを握り直した。口の中にはまだカカオの香りとキャラメルの甘さがある。
どうやら恋愛において、どんな理論をもってしても彼女には叶わないらしい。

