久しぶり、愛してる。
やっと作業が終わり、ちょっと買い物にでも行くかとヘッドホンを外して肩をぐるぐると回す。
玄関にいちはちの靴は無いから外にでも出ているようだ。自分以外に誰もいない家に「行ってきます」を告げ扉を開ける。
酒とちょっとしたつまみ、夕飯用の野菜の入ったレジ袋を右手に持って家へと向かう。右足、左足を踏み出すたびに自分の履いた黒いサンダルがかこかこと気の抜けた音を出す。こんな肌寒い冬にサンダルを履いてきたのは失敗したかもしれない。
「ここのアップルパイ、いちはち好きだったっけ」
などと思いながらそれを2つ買う。
アップルパイを大きな口を開けて頬張って口の周りにたくさんつけているいちはちを思い出し、クスと笑みがこぼれた。周りの誰かに見られてたらどうしようと焦ってマフラーを巻き直す。
家の手前に公園がある。
夜中に家を出て2人でブランコに乗ったっけ、と思いながら思い出の場所に向かう。
「あれがじらいさんなら、あれはしるこちゃんかな」と顔に小さく笑みを浮かべながら少し古くなって錆びた動物の乗り物を指を指したいちはちを思い出す。
次は滑り台が目に入る。いちはちが階段を上って滑り台に座り、俺はその後ろにしゃがむ。成人男性2人が滑り台に乗って座っている様子を見れば周りは不思議に思うのだろうが、その時は深夜だ。
いちはち、と呼んでこちらを向いた隙に唇を重ねれば耳を少し赤く染めて視線をふらつかせるのがおかしかった。
…ぽた。
地面が濡れた。1滴、2滴、砂が色濃くなった。
そして自分が泣いていることに気づいた。
俺が今何を考えて、何を思い出して、何故泣いたのか自分にもよくわからない。シャツの裾でそれを拭き取りブランコから立ち上がる。
「ただいま」
まだいちはちは帰ってきていないようだ。友達の家にでも行っているのだろうか。買ってきた野菜で夕飯を作る。二人分。そこで何かを思い出した気がした。何故か頭がズキンと痛む。寒いのにサンダルで外へ出たからだろうか、いやそれでは頭痛はしないだろう、と馬鹿なことを考えながら椅子に座る。時計の短い針は今、10を指している。
いちはちはまだ帰ってこないのか。
遅れる時はいつも連絡してくれるのに。
そう思いスマホでトーク画面を開く。
……無い。ここ2年間程の履歴が。そんなはずはないともう一度見てみるがやはり無かった。あいつが帰ってきたら聞いてみよう。
いちはちとのトーク画面を閉じるとしるこさんから通知が来ていた。
「…かるてっち大丈夫?もし俺に出来る事あったらなんでも言ってね」
どういうことだろう。とりあえず俺は元気だ。
「…だいじょうぶです、と」
送信ボタンを押すと直ぐに既読がついた。
こんなにもすぐにしるこさんから既読がつくのは珍しいことなので少し驚いた。
その後すぐ電話がかかってきた。
「もしもしかるてっち?」
「もしもししるこさん?」
「…あの、いちはちくんのことなんだけど」
俺の右手からスマホが落ちた。
何故か右手の力が抜けた。
「もしもし、かるてっち聞こえてる??」
ポチ、と通話を切る。
頭が痛い。手足にも力が入らない。
「…っ…忘れたい……!!」
何を忘れたいのかは分からない。
でもただ忘れたかった。
今、短い針が指しているのは11
12
1
2
……
「かるてっとさん」
いちはちの声が聞こえる。おれの大好きな声だ。
もう帰ってきたのか。
帰ってきたのなら良かったが遅れるなら一言でも連絡をして欲しいものだ。
「忘れないで」
そう言っていちはちは俺の前からまた消えた。
地面に落ちているいちはちの物に似たマフラー。
グシャリと潰れたいちご。
携帯を片手に車の前に立つ見知らぬ人。
家の近くで事故でも起こったのだろうか。
車の前に倒れている人はいちはちに似ていた。
「……っいちはち!……夢か」
短い針が指しているのは7。
朝の7時だ。
玄関に置いてあるのは1足。黒いサンダルだけ。
珈琲を淹れるために目をこすりながら棚を開く。
猫のマグカップと兎のマグカップ。
2人用のソファー。
木枠の写真立て。
俺の生活の全てに「いちはち」が残っていた。
俺の一番愛している人。
いちはちはもう帰ってこない。
そう思った。
いつの間にかいちはちの部屋だけが空っぽになっていた。いちはちの部屋には隅に置いてある木の棚に花だけが置いてある。
俺はいつになったらいちはちの所に行けるんだろう
いちはちがいなくなってからずっと考えていた。
俺は向かいの花屋に行って白い花を買った。
そしていちはちとの夜を思い出すソファと思い入れのあるマグカップだけを残して家の物全てを捨てる。
「最近見つけたあのゲーム、いちはちとしたかったんだけどなぁ…」
メンバーとみんなでゲームする時、いちはちは楽しそうに笑う。メンバーみんながいい人で、笑いが溢れていて、そんな人達に会えて幸せだなと思う。そういえば最近メンバーとも全然話してないなぁ。
ついに俺たちの家にはいちはちの部屋と俺の部屋に飾ってある白い花だけが残った。
「かるてっとさん!?」
「かるてっち!!!」
という聞き慣れた仲間の声が最後に聴こえ、だんだんそれは遠ざかって行った。
目が覚めるといちはちが目の前に立っていた。
「……っかるてっ、とさん」
その目はたくさんの涙を浮かべていた。
「いちはち!!!!」
その細い体を力をこめて抱きしめた。ずっと長い間触れられなかったんだ。少しくらいいいだろう。
「かるてっとさん、他の人達にちゃんと伝えてきたの?みんな、心配しちゃうよ。」
そういえば誰にも何も伝えてなかったかも。
みんなと最後、ちゃんと話したかったな。
「かるてっとさん、俺の事好きすぎだよ…」
呆れたように言いながら彼の目から涙が零れる。
それを早く拭ってあげたいと思った。
「…かるてっとさんにはもっと長くあっちにいてほしかったんだけど…でも会ったらなんか、俺嬉しくなっちゃった。」
眉尻を下げて泣きながら笑う男を俺は愛していた。
「…久しぶり、愛してる」
end