「美の沼」第三話 女性X
〜女性X〜
店内に客はいない。。ちょうど僕ら従業員の休憩時だが、今はそんな雰囲気ではなかった。
「いい加減にしてよね」
「すみません」
「君もう半年でしょ。煙草の銘柄ぐらい覚えてもらわないと困るんだけど」
「・・・すみません」
美緒は頭をひたすら下げ続けている。そんな彼女を見下ろすオーナーを僕はレジから睨んでいた。
オーナーは腕組みをして美緒を冷たく見下ろしている。
「ボクね、懇意のお客とか店員に聞いたのよ君のこと。そしたら返ってきた返事がどうよ。挨拶も小さいし笑顔もない。覚えは悪いがずっと真面目でヘコヘコ謝ってばーっかり。真面目なことを褒めてんじゃないのよ。めんどくさいだけだって言ってんの。従業員としてなんの取り柄もないじゃん」
「・・・すみません」
「まあ掃除だけはできるみたいだから、今日からあんた掃除係に変更。特にトイレね。ボクが言うまで役目変わっちゃダメ、いいね」
「・・・はい」
オーナーは文句をブツブツ言いながら店の奥へと戻っていった。オーナーの禿頭がドアの向こうへと消えると、美緒はぱっと頭を上げた。ずっと頭を下げていたせいかその頬はやや赤かったが、唇は真っ白だった。僕はずっと噛み締めていたのだろうと思った。
美緒はしゃんと背中を伸ばしてトイレの方へと歩いていった。レジの方を見もせずに。僕は何も言うことができなかった。
入山美緒は高校3年生、三ヶ月前このコンビニでバイトを始めた僕の後輩である。オーナーが意地悪でゴマすりなので、ちょっと要領の悪い美緒はよくいじめられている。僕は先輩としてそんな美緒の相談役を受け持っている。だから少し親しくなったのだが、彼女はいい子だった。人見知りなのでバイト中は笑顔が固くなることもあるが、普段はのびのびと楽しく笑うことが多い。
ある時美緒は、僕のことを兄のように思っていると言った。頼りにしていると。きっと今、美緒は僕が美緒のことをどんなふうに言ったのか心配であるにちがいない。
僕はバイトが終わると、帰り支度をしている美緒のところに飛んでいった。
「美緒、今日は災難だったね」
「あ・・・うん。大丈夫」
美緒は明るく笑った。僕はいたたまれない気持ちになった。だから早口で言った。
「オーナーは僕のところには美緒のことを何も聞きに来なかった。多分悪い噂が聞けないってわかってたからじゃないかな」
「そう」
美緒の目がちょっと大きくなった。
「そっか」
そしてまたにこりと笑った。僕はホッとした。
翌日の朝。僕は推しのリュンヌのグッズを買いに行くために電車に揺られていた。
本を読んでいると、突然僕のそばで声がした。
「隣に座ってもいいかしら?」
驚いて目をちょっと上げると、若い女性が立っていた。といってもおそらく僕よりは年上だ。カーキ色のコートをセンス良く着ている。
僕は座るのにいちいち許可を求めるなんて珍しいなと思いながら
「どうぞ」
ぼそっと言った。
「ありがとう」
女性はにっこり笑って僕の隣に腰掛け、膝をきちんとそろえた。僕は本を読み続けた。他にどうしようもないだろう。
「私あなたのこと追いかけてきたの」
耳元で女性の声がした。僕は耳を疑った。誰に言ってんだと思って横を見ると、女性がうっすら微笑んでこちらを見ていた。僕は気味悪くなった。
「私あなたのこと知ってるわ」
小さな声で囁くと、
「私の足元を見て」
そう言って床を指さした。僕は導かれるように下を見た。
ぎょっとした。
僕の足元には丸い影がある。
僕の隣に、つまり女性の影があるはずの場所には何もなかった。
朝日が翳る。暗くなる。ガタン。出てくる。明るくなった。ゴトン。
僕は弾かれたように立ち上がった。本が床にバサリと落ちる。乗客が僕を怪しそうに見ている。僕は気にもしなかった。春の暖かい日だと言うのに、僕はガタガタ震えていた。
隣の席には誰も座っていなかった。
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こんにちは。小説を書かせていただいてます。
「僕」の名前は最後まで明かさないつもりです(読者の方自身を彼に重ねてもらいたいので)
第四話は「幽霊との会談」です。お楽しみに!