命と物の分界
およそ私は 命を知らない故に考えるのだ、
戦争は命が大切だからダメと言う人間がいる。
私はそいつの事を酷く、浅はかと思うし、理由になってないと思う。
私は戦争が良いとは、決して言いたい訳ではない。ただ
死にたくないから戦争をしないと、命が大切だからは、
私にとって違う物だ。 死にたくないのは当然だ。
しかしながら 命が大切と言うのにそいつは、命が何か
知らない。私も知らない。
私は命って何なんだと、ふと疑問に思ったのは、寒い冬
風呂に入っていた時だ。 おおよそ私は妄想をよくする人間で
この日も考えを巡らしていた。 その時、考えていたのは
金属で出来た宇宙人はどんな体をして、その体は何の金属なのかと考えていた。
しかし宇宙人なのだから 我々には想像のつかない全く違う仕組みと考えた時
むしろ我々、生物よりロボットの方が近いかもなと思った、
そこで疑問に思ったのは、その宇宙人とロボットは何が違うかだ。
その時初めて 命のあるなしの差だと思ったが、よくよく考えると命ってなんだ?と思った。
そう言う時はネットで調べるのが一番だ 命とは何かこんな疑問は、
地球上いくらかの人は考えてるはずだ。なので命とは何か調べた
その答えは、出なかった。 何故なら今も様々な賢い人々が定義を模索してるのだ。
それならと私は自分の中の定義を考える事にした。
私の今の知る限りの命とは、代謝をしたり細胞があり子供を作りそれがいずれ出来なくなる時が来る物だ。しかしそれと同時に私たちは 明らかにそうでない物にも命を感じる、車やぬいぐるみ、ロボットましてや人の技術までもだ、しかし、それには上記のような命はない。つまりは私の命という物への理解は間違いである。
また金属で、できた宇宙人に細胞がない事もあり得る。 そう命とはもっとぼやけた物なのだろう。
命とは何かその途方もない大きな定義に私は困っていた。考えようにも
思いつかないのだ。そういう時に大概頭で起きてることは、考える事の区分化出来てないのだ。まず私は何故、生物学的に命の定義がない物に命があると言うのか、そこから考え始めた。
車にはエンジンがあり、タイヤがあって燃料があり排気管がある。それとその他諸々。 人形は少なくとも何か生き物と呼ばれる形をしてることが多い。ロボットはプログラムで動いて働く、私はどの物にも、とある一つの考えを見出した。それは「命とは自らの生命に共感を得る物なのでは?」車はおよそ燃料と言う食物を食べ それでエンジンと言う心臓を動かして その時空気を吸い二酸化炭素を吐き出す、まるで私たちと同じだ。人形も私たちと同じ物に見える。これで間違いないと思った。思ってしまった。しかしそれには明らかな問題があったのだ。
それは植物やカビ視点から私たちを見たら私の命がなくなるのだ。カビや植物なんかに私と同じ!なんて言う共感する感情はないつまりは私たちの命がなくなる。ここに確かにあるのに。その矛盾はこの定義の間違いを表しているのだろう。
昔の人にとって命ってもっと簡単な物だったなのだろう。ロボットもいなければ
車もない そこにあるのは道具と本当の生物だけだ。つまりは僕の考えるような観覚はそこには、決して起こらなかっただろう。それがヒントだった。私の命という概念に新しい見方が生まれた。
命には本物の命と虚像の命がある事に! 私は気がついたのだ。そう私の先ほど見出した命の定義とは 虚像の命の定義なのだ。本物の私の命と比べたらそれはおかしな事になる。虚像も本物も合わせて命と呼ぶ私たちには おかしな話、そう私が考えるべき命は本物の命だ。
私たちは常に息をしたりするが宇宙人には通用しないかもしれない。
まず命ある物に 必要なのは 生まれる事だ。そして生きる事死ぬ事。この過程は命にとってなくてはならない過程だ。だが 生まれるって何だ? 死ぬって何だ? 生きるって何だ?その事を思った。
生きるとは 生物共通の概念だ自分という存在を存続させる事だ。厳密に言うと一秒前と今を生きる自分は常に違う物となり自分と言う存続出来てないと言う賢い奴もいるだろう。テセウスの船と言うものがあるが我々は今も細胞は変化し続けている。 つまりは大きく見れば我々もテセウスの船と同じなのだ。そのテセウスの船が本物か偽物かは関係ないテセウスの船と言う存在を保ち続ける事だ。それが生きると言う事だ。そして死ぬと生まれるはそれが始まる時と終わる時だ。
この三つの存在が認められれば、それは命だ。ロボットを命と思わないだろう?しかし、そのロボットは自ら鉄を掘りだし ロボットは己の体を作り己の体が朽ち始めた時その作った体に意識を移したりそのロボットを起動させたならそれはもう大きく見て命なのだ。己を保ち己を残そうとする、まさにさっき上げた三つの概念に当てはまる。宇宙人もそれをするのだろう絶対に命あるのだから、
あー解決したと言いたいところだがまだ考える所がある。生きるが始まる瞬間の定義が必要なのだ。受精卵に始まり人工心臓 どこから命になるのかだ。
例えば受精卵一つと考えても そのままでは命とは言えない そこから胎盤を作って心臓を作る必要がある。 心臓だけ見ても 命はそこにない 人の体の中にあって命となる。私には思いつかなかった 俺は受精卵の話は一歩謝れば大量の人殺しを認めないといけなくなる。私は命をまだもっと根本の定義を間違えている。 何だ?命とは何だ? 命とはどんな物何だ? 物? 命って物なのか? 自然と、私は命ってどんな物だと疑問に持った。命って物として定義する事か? 私は思った。命とは物じゃない 無常の中にある流れだ。形や物を見ても存在はしない。心臓がそこに置かれても虚像の命しかない。感情移入の先に生まれた嘘の命だけがそこにある。しかしその心臓が体に入り五臓六腑に真紅の血を送る。命という己を維持する流れの中に組み込まれている。その流れこそが命なんだ。そこにあるから流れの一部だから命なんだ。受精卵が胎盤に張り付き、己から細胞を分別させ母親から命の流れの一環になろうとした時、命を初めて始めるのだ。 発明家が己を作り続けるロボットを作りそのロボット起動できた時ロボットは命を持つ、宇宙人もそうだ。きっとそうに違いない。
私はここに自分の命を定義付ける
「命とは、己を保つ流れを持ち、それが始まりいずれ終わる時が来る現象の事で、それを感じる物には虚像の命が宿るのだ。」
もしかしたら宇宙も日々変わり続けるが 何か宇宙を保ってるのかもしれない。
生態系は互いの関係流れがある、命なのかもしれない 、ウィルスは生物学上
生物でないと定義されてるが、我々に感染する事で己を作るのだから彼ら単体でこそ命はないが 感染する細胞がそこに加われれば命なのだろう。
私はそう思う。あくまで私はそう思う。
私だからそう思うのだ、けどもっと考える必要がある。私一人じゃない
皆で考える必要がある。だから聞く、
あなたにとって命とは いや
命と物の分界って何ですか?
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