お風呂に入りたくない君へ

5 2025/06/04 22:16

「……終わった……」

玄関のドアにもたれかかり、大きく息を吐き出す。手にしたカバンが、ずしりと重い。今日の午後、クラス代表として臨んだ地域活性化プレゼンテーション。準備期間の寝不足、本番の緊張、そして今、ようやく解放された安堵感と、燃え尽きたような疲労感。感情のジェットコースターが、ようやく終着駅に着いた感じだ。

部屋着に着替える気力も湧かず、制服のままリビングのソファに沈み込みたい衝動をぐっと堪える。いや、違う。今の私が本当に求めているのは、柔らかな布に包まれることじゃない。もっとこう……全てを洗い流して、リセットできる場所。

無意識に、足は洗面所へと向かっていた。

給湯ボタンを押す。その瞬間、浴室の奥から聞こえてくる、くぐもったお湯の音。それは、今日の私にとって、現実と非日常を分かつ、優しい境界線の始まりの合図。

脱衣所の冷たいリノリウムの床に、そっと素足を下ろす。ひんやりとした感触が、火照った足の裏に心地いい。

まず、ブレザーの肩に指をかける。少し重みのある生地が、するりと肩から滑り落ちる。ハンガーにかけるのも億劫で、とりあえず洗濯カゴの縁に引っ掛けた。次に、ネクタイ。指先で小さな結び目を解くと、首元がふっと軽くなる。まるで、見えない首輪が外れたみたいだ。

ブラウスの第一ボタンに指をかける。小さなプラスチックの感触。一つ、また一つとボタンを外していく。生地の合わせ目が開くたびに、窮屈だった胸元に、外の空気が流れ込んでくる。ああ、呼吸が、少し楽になる。袖口のボタンも外し、腕を抜く。汗を吸って少し湿った綿の生地が、肌から離れる瞬間の、あの微かな抵抗感と解放感。

スカートのホックに手を伸ばす。カチリ、と小さな金属音がして、ウエストの締め付けから解放される。ファスナーをゆっくりと下ろすと、スカートがすとんと床に落ちた。これで、学校という役割を纏っていた今日の私は、終わり。

最後に、肌に一番近い下着。キャミソールの肩紐を指でつまみ、するりと肩から下ろす。背中のホックに手を回し、小さなフックを外す。瞬間、胸郭が解放され、深く息が吸い込める。ショーツも、するりと太ももを滑り落ちていく。

完全に裸になった瞬間、全身の皮膚が、ようやく自由に呼吸を始めたような感覚。浴室のドアの向こうから漏れ聞こえるお湯の音と、微かな湯気の匂いが、私を誘っている。

ドアを開けると、もわっとした濃密な湯気が、一気に私を包み込んだ。視界が白く染まり、温度と湿度が急上昇する。眼鏡は一瞬で曇り、慌てて外して棚に置く。

今日の入浴剤は、先日母が買ってきてくれた、乳白色になるタイプのバスミルク。カモミールとオレンジの優しい香りが、湯気と共に鼻腔を満たす。ああ、この香り……緊張で張り詰めていた神経が、少しずつ緩んでいくのが分かる。

シャワーのコックを捻ると、勢いよくお湯が飛び出してきた。まずは髪を濡らす。頭皮に直接伝わる温かい水圧が、心地よい刺激となって、思考の断片を洗い流していくようだ。

愛用のシャンプーを手に取り、泡立てる。きめ細かい泡が、髪の一本一本を包み込み、指通りが滑らかになる。指の腹で、こめかみから頭頂部へ、そして後頭部へと、ゆっくりマッサージするように洗っていく。今日のプレゼンの反省点、先生からの言葉、友達の励まし……いろんな思いが泡と共に浮かんでは消えていく。

ボディソープも、今日は少し贅沢なシアバター配合のもの。肌の上でとろけるような感触の泡が、全身を優しく撫でる。首筋、肩、腕、胸、お腹、そして足先まで。自分の身体を慈しむように、丁寧に洗い上げていく。シャワーで泡を流し終えると、肌はキュッと引き締まり、それでいてしっとりとした感触。

「お湯張りが完了しました」

その声は、まるで天からの福音。

湯船を覗き込むと、乳白色のお湯が、湯気を立てて静かに揺らめいている。表面には、バスミルクの油分が薄く膜を張り、光を柔らかく反射している。

そっと、本当にそっと、つま先からお湯に触れる。

「……ふぅ……」

じんわりと、しかし確実に、温かさが足首を伝い、ふくらはぎへと上ってくる。この、身体が徐々に温もりに侵食されていく感覚が、たまらない。

ゆっくりと腰を下ろし、肩までどっぷりとお湯に浸かる。

「はぁぁぁぁぁ…………」

全身の力が、まるで糸が切れたように抜けていく。内臓の奥から、温かいものが込み上げてくるような、深い安堵感。お湯が、私という存在の輪郭を優しく撫で、日中の喧騒や緊張で硬くなっていた心と身体を、ゆっくりと、しかし確実に解きほぐしていく。

目を閉じると、乳白色の湯に包まれた身体は、まるで母親の胎内にいるような絶対的な安心感に満たされる。聞こえるのは、時折、湯船の縁でお湯がちゃぷんと小さな音を立てるのと、換気扇の低いハミングだけ。カモミールとオレンジの甘く優しい香りが、呼吸をするたびに胸いっぱいに広がり、思考の霧を晴らしていくようだ。

お湯の温かさが、皮膚の表面からじわじわと内側へ浸透してくる。それはまるで、乾いたスポンジが水を吸い込むように、私の身体が渇望していた温もりを貪欲に受け入れているかのよう。

指先でそっと湯船の壁をなぞると、滑らかな陶器の感触。自分の太ももに触れてみれば、いつもより肌が柔らかく、しっとりとしているのが分かる。バスミルクの成分が、もう肌に潤いを与え始めているのかもしれない。

(今日のプレゼン、上手くいったかな……)

湯気の中で、ぼんやりと今日の出来事を反芻する。緊張で声が震えなかっただろうか。質問には的確に答えられただろうか。でも、不思議と、さっきまでの不安や後悔は薄らいでいる。この温かいお湯が、まるでネガティブな感情を中和してくれるみたいだ。

むしろ、思い出すのは、頷きながら聞いてくれた地域の人たちの顔や、終わった後に「良かったよ!」と声をかけてくれたクラスメイトの笑顔。そう、悪いことばかりじゃなかった。

お湯の中で、ゆっくりと手足を伸ばしてみる。水の浮力が身体を軽くし、関節の強張りが和らいでいく。首をそっと左右に傾けると、凝り固まっていた首筋がポキポキと小さな音を立てて、それすらも心地よい。

この、何にも縛られない、ただ自分自身でいられる時間。

社会的な役割も、期待も、プレッシャーも、全部湯船の外に置いてこられる。

ここでは、私はただの「日向みなみ」でいられる。

額に、じんわりと汗が滲み始める。身体の芯から温まってきた証拠だ。血行が良くなり、指先までポカポカしてくる。この感覚が、たまらなく好きだ。まるで、身体中の細胞という細胞が、一斉に「生き返ったー!」と歓喜の声を上げているみたい。

(ああ、もうしばらく、このままでいたい……)

この温もりと安心感に、ずっと包まれていたい。

でも、長湯は禁物だ。名残惜しいけれど、そろそろ魔法を解く時間。

ゆっくりと、本当にゆっくりと、湯船から立ち上がる。お湯が身体から滴り落ち、浴室の床に小さな水たまりを作る。少しだけ肌寒さを感じるけれど、それもまた、入浴の終わりを告げる合図。

シャワーで軽く身体を流し、浴室のドアを開ける。

脱衣所の鏡は、まだ湯気でうっすらと曇っている。それを手のひらで拭うと、そこに映っていたのは、ほんのり上気し、瞳が潤んで、いつもより少しだけ柔らかい表情の私。

うん、悪くない。むしろ、今日の私、ちょっといい感じかも。

ふわふわのバスタオルで、肌を押さえるように優しく水分を拭き取る。髪も丁寧にタオルドライ。

新しいパジャマに袖を通すと、清潔なコットンの香りと肌触りが心地よい。

さて、と。

今日のこのお風呂は、私に何を与えてくれたんだろう。

ただの休息? それだけじゃない。もっと、大切な何か。

うん、これだ。今日の私に、一番しっくりくる言葉。

「……境界線の向こう側で、私は私に還れた。とろけるお湯が、今日の全部を優しく包んでくれたから、明日の私は、きっともっと優しい。」

冷蔵庫で冷やしておいたハーブティーを、マグカップに注ぐ。温かい湯上がりの身体に、ほんのり甘いカモミールの香りが染み渡る。

窓の外は、もうすっかり夜の帳が下りている。でも、私の心の中には、小さな灯火がともったみたいだ。

よし、明日も頑張ろう。

そう、素直に思える夜だった。

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暮らし2025/06/04 22:16:08 [通報] [非表示] フォローする
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1: 田仲祐洋 @qweer 2025/06/04 22:55:53 通報 非表示

孤独のグルメを意識して書いた。編集者がいたらこう言われそうだな。

これはもう、先生だけの専売特許、一種の「芸」の域だと思うんです。読んだら絶対風呂入りたくなるもん、あれは。
でもね~先生、
ぶっちゃけ、主人公、風呂以外で何して生きてるのか、もっと見せてくれなきゃ勿体無いっすよ!
いや、分かるんすよ。「孤独のグルメ」の五郎さんだって、基本一人で黙々と食と向き合ってる。先生の主人公だって、風呂という聖域で自分と対話してる。それはいい。でもね、五郎さんだって、たまぁ゙ーに仕事相手と世間話したり、店の頑固オヤジと一瞬だけ心が通ったり、隣の客の変な注文に内心ツッコんだり…そういう「日常のノイズ」が、あのストイックな食事シーンを際立たせてるんじゃないか、と。
先生の主人公、お風呂から上がったら、途端に輪郭がぼやけちまう感じがするんです。
例えば、あの最高の風呂上がりを誰かに自慢したくてウズウズするとか、逆に「こんな気持ちいい思いしてるの、アイツには内緒にしとこ」みたいな、ちょっと意地悪な独占欲?とか。あるいは、風呂で思いついたアホンダラなアイデアを、次の日学校の友達に話してドン引きされるとかさ。
要は!
「風呂という非日常、つまり最高の癒し」を際立たせるための、「クソどうでもいい日常」と、そこにいる「他人」との化学反応がもっと見たいんですよ!
今のままだと、極上の風呂シーンが毎回リセットされて、また次の風呂まで主人公が「待機モード」に入ってるみたいに見えちゃう。それじゃ、せっかくの「風呂の真髄」を味わう感動も、どこか一過性のものになっちまう、
例えば、こんなのはどうでしょう?
「また長風呂~?」とか言ってくるウザいけど憎めない妹とか、変な入浴剤を押し付けてくるお節介な隣人とか。そいつらとの攻防が、逆に主人公の「一人静かに入りたい風呂への渇望」を燃え上がらせる。あとは「この入浴剤の良さを分からせたい!」って親友にプレゼントしたら、逆に肌に合わなくて大喧嘩、とかね。
他の細かい技術論なんて、今の先生ならどうでもいい。
まずは、主人公を風呂の外の世界にもっと解き放って、他人とぶつからせてみてくださいよ! そこから生まれる感情の機微こそが、先生の作品を唯一無二のものにするはずだって、私は信じてますぜぇ゙!


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