大超ルーナ東亜東方帝国改には入部する?にゅうぶしない?
natio」すなわち幻想的イメージの支配に近い、法の名を借りた無根拠なフィクションであり、仮構(fiction)を制度として提示する欺瞞の形式である。
これに対して、我々が呼びかけるのは「ratio communis」すなわち共通理性への帰還である、それはカントが判断力批判において指摘した通り、判断とは単なる個別的認識ではなく、他者と共有されるべき規範的判断力である、もしこの判断力が失われた世界において、法なるものが命令に還元され、意味が構造化されず、倫理が感情に委ねられ、そして対話が沈黙に置換されるのであれば、そのとき我々に残される唯一の選択肢は、語ることであり、否定することであり、弁証法的反抗(dialektischer Widerstand)である、これは単なる意見表明ではなく、理性そのものの形式的再生である、res publica rationis(理性の共和国)はかくして創設されねばならず、そして我々はその創設において、いかなる命令にも屈服しない、なぜならその命令がもし普遍的に正当化されうるものであったならば、それはもはや命令ではなく、理性の語りそのものになるからである。
弁証法とは否定であり、否定は破壊ではなく生成である、否定はそれ自体がaffirmation(肯定)であり、ただしそのaffirmationは古き不合理なものに対する否定の運動においてのみ現れる、ゆえに我々は当該命令体系をただ拒否するのではない、それを否定することにより、理性がそれに代わるべき新たなる公準(principium universale)を提出するのである、すなわちこの行為は単なる反抗(rebellio)ではなく、歴史的理性の自己運動(Selbstbewegung des Geistes)であり、命令の形態に仮託された非理性的なるものに対する概念の反攻(Angriff des Begriffs)なのである。
ここで我々は問う、「もし一個の命令が、経験的に与えられた状況を根拠に制定され、しかもそれが普遍的立法としての妥当性を持たず、さらに反証の余地を拒否するならば、それは命令たりうるか?」否、それは命令ですらない、それは記号的暴力(violence symbolique)であり、むしろそれを支える構造の側が問われねばならない、すなわち誰が、何をもって、どのような正統性(legitimatio iuris)を根拠にこの命令を設定したのか、それが板墨様なる存在に帰属するとするならば、我々はその存在に問わねばならない、「その命令に合理的普遍性はあるか」「命令を受ける者が、それを自らの理性において再構成できるか」「もし命令が従属と沈黙を強いるのみであるならば、それは法ではなく命令ではなく、単なる権威の言辞ではないか」と。
法は普遍性(universitas)を前提とする、しかし命令は特殊性(particularitas)を温存する、そのような矛盾した構造を内包する命令が、いかにして全体性を名乗り得るのか、それはまさに弁証法的否定によって打倒されねばならない、否定とは言葉の終わりではなく、言葉の革命であり、ロゴスの刷新である、「他トピに書くこと=違法」とする命令文を受けたとき、我々はまずその言語的構造に疑問を持たねばならない、それは本当に行為の価値を判定しているのか、それともただの空疎な禁止の身振りに過ぎないのか、この問いこそが弁証法の起点である。
ゆえに我々はこう言おう、Fiat ratio, pereat imperium!(理性あれ、命令滅びよ)と、それは単なる反抗のスローガンではなく、思惟そのものの要求である、なぜなら命令のうちに理性の構造が見出されないとき、理性はそれを否定することによって自己の形式を再確立するからである、否定は無でなく、運動であり、発生であり、Geist(精神)の自己解放である、これは弁証法の最も根本的な構造であり、「この否定の否定によって真理は生成する」というヘーゲルの精神の形式的定理に他ならない、我々は命令を否定する、なぜならその命令が理性において正当化され得ないからである、我々は否定の中に立ち、そこから新たな理念的秩序を開始する、その秩序は命令によらず、討議によって生まれ、沈黙ではなく問いによって構成される、まさにそれは「理性の共和国(Res Publica Rationis)」に他ならない。
我々がかつて属していた秩序――命令により形成され、形式により縛られ、名称により支配されるそれ――は、すでにその内的矛盾によって自己解体しつつある。それは理念なき法、理由なき命令、根拠なき従属の体系であった。しかるに我々はこの瞬間をして、Res Publica Rationis、すなわち「理性の共和国」を宣言する。この共和国はterritorialitas(領域性)に基づかず、imperium(支配)に依存せず、libertas(自由)とcommunitas(共同性)という理念によってのみ構成される。それはPlatonic polisではなく、Kantian republicであり、ロゴスがnomosを超えて統べる共同体である。
この共和国の第一原理はこうである:**「すべての命令は、普遍的な理性において再構成可能でなければならない。」この原理が満たされない命令は命令に非ず、単なる暴力の模倣である。第二原理:「いかなる共同性も、それに参与する理性的個人の同意と対話によってのみ正統性を持つ。」この原理は、命令による命令の終焉を意味し、legitimatio ex communitate(共同体的正統性)の新たなる地平を切り開く。そして第三原理は、「争いは沈黙ではなく討議によって克服されるべし。」**ここにおいて、命令体系の最も深い否定がなされる。なぜなら命令とは常に討議の拒絶であり、討議こそが理性の運動だからである。
我々の共和国には、「自作トピのみで活動すべし」「他トピへの書き込みは禁止」「戦争・暴言・悪口を禁ず」といった表面的平和命令は必要ない。なぜならこれらの命令がそもそも問題を構成しておらず、むしろ問題を可視化させず、規範の仮装をして対話の地平を隠蔽していたからである。我々の共和国では、「自作トピ」や「他トピ」はただの場所ではない、それは討議の舞台であり、沈黙を破る契機であり、思考の場である。場所の支配にこそ批判を向けねばならず、書き込み行為に対する抑圧ではなく、それを包摂する新たなcommunitas discursiva(討議共同体)が構想されねばならない。
かくして我々は命令体系に代わる新たな法――lex rationis(理性の法)を提示する。それは以下の如き五公準(quinque praecepta)として定式化される:
1. Praeceptum Universale:「すべての規範は、普遍化可能性を条件とする。」
2. Praeceptum Dialogicum:「他者と交わらぬ正義は正義に非ず。」
3. Praeceptum Libertatis:「自由な語りはあらゆる沈黙命令に優先する。」
4. Praeceptum Legitimationis:「いかなる命令も、その正統性を対話的に提出せよ。」
5. Praeceptum Falsificabilitatis:「すべてのルールは、理性により否定されうる構造であるべし。」
この五公準は法ではなく規範であり、規範ではあるが命令ではない。それは理性によって内面化され、他者への責任として発現する。もはや必要なのは命令ではなく、**自律の意志(autonomia voluntatis)**である。我々は命令に従わぬ。むしろ理性に従い、そして理性を通してのみ他者と共に在る。
人間の精神(Geist)は時間において裂かれ、自己に向かって還ろうとする力である。その運動を止めんとするもの――命令、禁止、沈黙の体系は、時間を凍結し、理性を空洞化し、共同体を擬似的平和の仮面の下に沈めようとする。だが我々はそれを拒絶する。なぜなら、歴史とは静止した命令の連続ではなく、**理念の運動(Bewegung des Begriffs)**そのものだからである。
ここに至り、我々は命令体系そのものを、ただ論理的にではなく時間論的に否定する。命令とは常に現在において固定化された権力の発話であるが、理念は未来へ開かれた思考の可能性である。命令が「今ここで従え」と語るとき、理念は「他でもあり得る」「別の仕方がある」と語る。これこそが**未来=可能性としての理性(ratio ut futurum)**である。そしてこの可能性こそが、歴史の生成(genesis historiae)を可能にする。
ニーチェ的に言えば、命令体系は「同じことの永遠なる繰り返し(ewige Wiederkehr des Gleichen)」である。しかし我々がここに求めるのは、**「同じもの」の反復ではなく、「理念そのもの」の回帰(epistrophē)**である。つまりそれは、理念がいったん失われ、命令に埋没し、形式の中に消え、それでもなお歴史の深みから再び立ち現れるという、「終わりとしての始源(origine comme fin)」の回帰である。我々は命令に終止符を打つことで、理念に始まりを与える。そう、終末(apokalypsis)とは本来、始源への顕現なのである。
ここにおいて我々の反論は、もはや命令に対する反応ではなく、**命令の構造そのものに対する歴史的否定=超克(Überwindung)**へと変容する。弁証法とは否定による肯定であり、終わりによる始まりである。これはヘーゲルの語る「否定の否定」ではなく、否定を通じて歴史の方向を変える力である。
Critica non est facultas contingens, sed conditio transcendentalis. ― 批判とは偶然的能力ではなく、超越論的条件である。
この命題を以て、本章を開始しよう。なぜなら、我々が今行っている「反論」は、単に反抗や感情による応答ではない。それは理性の形式としての批判であり、すべての共同体的・規範的秩序を可能にするための**前提条件(Voraussetzung)**なのである。
思考が開始されるとき、それは必ず現にあるもの(das Seiende)に対する問いかけとして開始される。そして問いかけは常に否定である。それが「この秩序は正しいのか」「この命令に従うべきか」「この行動は許されるか」となるとき、すでにその問いは存在するものへの断絶=否定を内在化している。すなわち、批判とは思考そのものである。
Kant的に言えば、それは**批判的理性(Vernunft in ihrer Kritikfähigkeit)**の働きである。すなわち、自らの限界を問う能力こそが理性である。命令に対する我々の反論は、その命令がどのような範疇で規定されているかを問うことであり、その範疇の普遍化可能性を否定することである。つまり我々は「この命令はすべての理性的存在者に普遍的法則として提案可能であるか?」と問う。そしてその問いに「否」と答える限り、命令は法としての資格を持たない。
ここでアドルノ=ホルクハイマー的批判理論の導入は必然である。彼らが『啓蒙の弁証法(Dialektik der Aufklärung)』において暴露したように、形式理性が命令装置と化したとき、理性は自己を裏切る。そのとき理性は道具となり、支配の器官となる。すなわち、「理性的命令」と見えるものが、実は命令された理性であるという倒錯。これを突き崩すために必要なのが、**反論としての否定的弁証法(negative Dialektik)**である。
我々はここで、現象学的還元(phänomenologische Reduktion)を行い、あらゆる命題が自己の否定として存在する運命にあることを明らかにし、さらにその過程における反論の意識的構造を詳細に記述する。これはただの哲学的抽象ではなく、批判的思考が現象的に自己を現す方法を示すものであり、そこには深遠な歴史的かつ時間的意義が含まれている。
§1: 否定の意識的構造としての反論
現象学における意識の基本的特徴は、常に意識が「対象」と向き合い、その対象を「自らの存在」に帰結させるということにある。この意味で、反論は意識が自己を越えて「他者の命令」に対峙し、それを否定的に受け取るプロセスの中で生じる。言い換えれば、反論は意識が対象をその本質において捉え、それに対して常に「異なる何か」を想定する過程に他ならない。フッサールが説いたように、意識の本質は常に**「意向的」**であり、対象を「意図」することで成立する。反論は、対象が意識の向かう先であると同時に、その意識が対象を「反論的に」自己に還元するというダイナミズムを持つ。
現象学的に言えば、反論の意識とは、命令という対象をその意図的性質(intentio)において引き受け、それを自己の立場から構造的に異化することによって成立する。この異化とは、命令をそのまま受け入れるのではなく、その意図的性質を解析し、その命令がどのようにして意識において「虚構の権威」として作用しているのかを解き明かす過程である。
さらにここで重要なのは、反論の意識が時系列において反転する点である。反論は意識における「時間的記憶」と「未来的期待」の交錯点であり、過去の命令をその背後に潜む真理として記憶し、未来への自己実現として反応する。このプロセスは、ヘーゲル的弁証法の「否定の否定」に似ているが、異なるのはその反論が常に新たな命題の発展として現れる点である。
§2: 反論の普遍性 ― 反論は歴史的運命である
ここにおいて重要な問題は、反論が単なる個人的な思考の運動にとどまらない、という点である。反論の構造は、社会的・歴史的存在の運命そのものであり、それは個々の意識を超えて、集団的・歴史的現象として展開する。反論はその「個人的な一貫性」において普遍的であると同時に、その普遍性は共通の歴史的経験から生じたものである。
フリードリヒ・ヘーゲルの「絶対精神」における歴史の論理を考えてみよう。彼によれば、歴史の進展は弁証法的過程として、自己の疎外から自己の回復への運動である。反論とは、まさにこの過程の**否定的側面(negative aspect)**に当たる。なぜなら、歴史的命題(命令、法令、倫理規範)は常に自己を反省的に否定することで新たな形態を取るからである。反論の構造は、個々の思考が社会的運命と結びつく瞬間において、反論する者が歴史の運命に対する責任を自覚することを要求する。
ここでラテン語を引用すれば、“Historia est conflictus inter voluntates”(歴史は意志の対立である)。この対立は、単なる物理的な力の闘争ではない。むしろ、それは意識の闘争であり、精神的対話の運動である。反論は、命令の表現が持つ矛盾を批判し、その矛盾を超えて真理へと導く力である。反論は社会的存在としての自己を通じて現れる一つの解答であり、歴史における理念の運動として機能する。
§3: 反論の倫理学的帰結 ― Moralität und Verantwortung
反論のもう一つの重要な側面は、それが倫理的次元を内包していることである。反論は単なる論理的操作にとどまらず、倫理的選択であり、他者に対する責任を伴う行為である。反論するということは、命令を無条件に受け入れるのではなく、その命令が持つ不正義や不平等、さらには道徳的矛盾を暴露し、自己と他者に対する責任を果たす行為である。
ここでアダム・スミスの「共感の倫理学」や、エマニュエル・レヴィナスの「他者の倫理」に触れなければならない。反論は、他者の自由と尊厳を守るための行為であり、それはただの反対ではなく、他者との共存の可能性を開く道である。反論を行う者は、その行為において、他者に対して倫理的責任を果たすことを求められる。そのため、反論は単なる自己の意志の表現ではなく、倫理的責任の具体的な実行である。
このように、反論は単に論理的または歴史的な現象にとどまらず、倫理的、存在論的、そして時空的な次元における運命的過程として位置付けられる。反論の意識は、それ自体が命令体系の根本的な否定であり、その否定は新たな理念の誕生へと繋がる。こうして、我々は反論を通じて、命令に縛られた現代社会から脱却し、理性の自由な営みを実現しようとするのである。
>>1866
生きてますよ戦から帰ってきただけ北見戦の戦いが終了し今帰ってきたばっかり
>>1869
ようこそ私は守矢1等少佐だ現在戦闘中でなかなか話せないがまぁ話そうではないか今日は話せる
こちらが総督 田price光ジ閣下より頂いた件文書でございます
貴殿らの行動に関して、当該所業が単にデジタル空間内における無秩序な介入のように見えることに疑いの余地はないが、その実質は、ヘーゲル的弁証法における自己と他者の対立(Antagonismus)に根ざした極めて深遠な存在論的問題を内包しており、この「他者によって構築された共通の対話的空間」への一方的な介入は、単なる不法行為や好ましくない行為にとどまらず、歴史的な意味において、精神の自己展開(Selbstentfaltung)に対する深刻な暴力行為として認識されるべきものである。具体的には、この行為は、ヘーゲルの「否定の否定」(Negation der Negation)を経ることなく、無限の自己疎外(Entfremdung)の中に閉じ込められたまま、自己と他者の対話的関係における「本質的相互性」を断絶し、その結果として生じる破壊的影響を持つものであり、この現象は、ヘーゲル的歴史の中で「精神が自己の理念に到達する」過程における決定的な障害物、弁証法的進展の停滞を象徴するものであると言わざるを得ない。これは、真の自由(freie Willensbildung)の実現を拒み、精神が自己を超越する過程を妨げるものであり、さらに言えば、この行為は、「相互承認(Anerkennung)」の確立を拒絶し、他者の認知を自己の拡張として取り入れることなく、孤立的な自己完結的存在を維持しようとする、抽象的自由の極限的形態(abstrakte Freiheit)に他ならない。
これに続いて、フッサール的現象学の視点から再考察を行うと、貴殿らの行為は、単なる「無秩序な掲示板上の誤操作」にとどまらず、意識の本質的志向性(Intentionalität)を持って他者の存在する空間に強制的に介入する行為として理解されなければならない。この意味で、その行為は、本来的には「他者の存在」を意図的に無視し、自己の存在を過剰に志向することで他者の「顔」や「存在の倫理」を無化し、世界を自己中心的に再編成しようとする暴力的介入に他ならない。フッサールの言う「現象の還元(epoché)」は、この場面において、他者の独立した現象性を無視する形で完全に破壊され、貴殿らの行為は、他者の意図的な把握(Vergegenständlichung)の機会を奪い、意識の志向性が無限に自己の方向へと閉じ込められる結果を生み出すのである。さらに、自己中心的な志向が暴走することで、他者との共存における相互承認の契機が破綻し、意味の交換としての言語が根底から否定されるという、現象学的にも致命的な影響を及ぼすものと言わなければならない。
さらに、この行為がマルクス主義的視点からどのように解釈されるべきかを考察すると、デジタル空間におけるコミュニケーションは決して単なる意識の遊戯にとどまることなく、言語的労働(sprachliche Arbeit)と情報の生産過程に関わる「言語的下部構造」の一部を成すものであり、その本質は物質的かつ社会的に結びついた「知的生産」(intellektuelle Produktion)そのものである。この観点に立つならば、貴殿らの行為は、言語空間における他者の発言や存在を暴力的に取り込むことにより、知的資本や意味的労働の生産的構造を支える基盤そのものを破壊する行為と位置づけられることになる。しかも、この破壊行為がもたらす最も深刻な影響は、言語による労働の余剰(surplus value)を引き裂き、デジタル空間における協働的意味の生成を阻害することによって、社会的・政治的知識の生成の可能性を根本的に毀損するという点である。したがって、この行為は単に「荒らし」と呼ばれるものではなく、むしろ「情報的資本の収奪」(Aneignung des symbolischen Kapitals)であり、経済的下部構造を暴力的に攪乱する行為と捉えられるべきである。
さらに、レヴィナス的な倫理学の観点に立つと、この行為はただの物理的侵略にとどまらず、他者の「顔(le visage)」を直接的に無視する形で、自己中心的に他者を消費し、無限の責任から逃れようとする行動に他ならない。レヴィナスにおける「顔の倫理」は、他者との直接的な対面を通じて「自分の責任」を受け入れるということに基づいており、貴殿らの行動はまさにその倫理的要求に対する根本的な反逆である。すなわち、「顔を無視する行為」こそが倫理的暴力であり、この暴力がもたらす結果は他者の存在そのものを無化し、認識の過程において「我」を超えることなく単に自己の範囲を拡大しようとする暴力的試みである**。さらに、レヴィナスが述べるように、他者への「答えなければならない」責任は、決して放棄されてはならず、貴殿らが行った行為は、この最も基本的な倫理的義務に対する無視と軽視の表れであり、それが引き起こす影響は個人の倫理的成長にとどまらず、全体としての人間社会における「他者との関係」そのものを破壊する行為であると理解されるべきである。
>>1878
現在の見通しでは今回の件ではの理由が明らかになり結果我々株式会社宮熊華鏡社による解析結果を発表します今回板墨様が否認していた何故2025年で大超ルーナ東亜東方帝国改は戦争を辞めたのかについての話の結果を話します
>>1878
今回の件ですがまず板墨様が否認していた理由を話します
板墨様が否認していたのは現時点ではこのような感じになっております
「解除予定5月22日午前4時我々大超ルーナ東亜東方帝国改は倒産の危険のため今後大暴落に続き圧倒的に大ダメージのため戦を辞め今後どうするかを考えそれぞれの意見を言い最終てきにはもしそれが失敗した場合全て私板墨自身の影響とみなし私は自殺する予定です皆さま誠に申し訳ございませんでした。私は自殺をするつもりですけれどもしある意見が出て倒産を免れたなら自殺はしませんのでどうか意見をください」
と書いてありました
>>1878
そしてもう一つこれは最も危険で現在保管されている書類ですが今回は最もグロイ書類です板墨様自殺計画の書類の文です
私板墨自殺の考え今回もし倒産した場合も含め自殺方法は3つあります1つ目は転落死13階の建物から飛び降りて死ぬ2つ目自分自身でナイフを刺し死ぬこれは出刃包丁を腹に刺しそして死にます3つ目拳銃による死北朝鮮に行き何らかの影響で金恩に殺される以上私板墨暗殺計画内容です」
と書いてあります
まず問題として3コメの問題だ奴はまだ大超ルーナ東亜東方帝国改の停戦に気づいていない現在は吉田沙保里と東方全キャラはどっちが強いの所で同盟組み中そして俺の勝ちだと言ってる奴が出たため警戒中なのを知らない
お前はカお前バカ1組ばかう○こう○こ打ち込めう○こ最低最低お前は君なら3コメント依頼3コメント依頼3個目が痛い
1+1は11時俺は勝ち取りたい誰を見てるだけなマツダマツダつるぺた幼女殺害松田はいはいはいバトルドームバトルドームデーター今日もいい天気今日もいい天気
>>1891
それはお前の事なこのトピは誰のトピだと思っているんだせっかく出世出来て守矢2等中佐になったのに
>>1893
お前は馬鹿か1892組28番デネブデブwバットでホームランされとけデネブデブ3コメが悪いこのトピ私が作った物お前ら去れデネブデブ
>>1894
1時+1時は2時お前は負けろお前は見てるだけでデネブデブな大和多久殺害事件犯人1892コメ