ひ と り ご と
そして。
忽然と姿を消した。
「なー、くん……?」
幕間のような静寂が訪れる。
誰もいなくなった空間に、ジェルの呟きだけがポツリと堕ちた。
『彼は今、その手首から血を流し続けていると思い込んでいます』
『人というのは面白いもので、命が流れていると信じた脳は、一定量の血が流れたと判断したタイミングで勝手に生きることを止めてしまうのですよ』
『これは、研究機関でも立証された話。そして、わたしは何度もその結果をここで見ている』
『仲間を思いやる勇敢な彼は、一体、どこにその線を引くのでしょうね』
る「二人とも捕まったら勝てなくなりますよ。ころちゃんは、ななもりさんを助けないと」
彼はそう言ってくしゃりと笑った。
そして、躊躇することなく扉の向こうに消えた。
その顔が、泣きそうな顔に見えたから、ころんはそこから動けなかった。
「アイツ……何、考えて」
嫌な予感にころんは呟き、彼の言葉を反芻した。そして、心臓をギュッと直接掴まれたような感覚に見舞われた。
『二人とも捕まったら』
──アイツは、捕まる気なのか?
「あの、馬鹿……っ!」
ころんは慌てて廊下に飛び出した。
けれどもう、るぅとの姿はそこにはなかった。
舌打ちをして引き返し、バッグを漁ってインカムを取り出した。勢い余って一度落とし「あぁ、もうっ」と苛立ちながら耳につけ、電源を入れる。
「るぅとくん!!?」
『………叫ばないでください。耳が壊れる』
「戻ってこい!今すぐ!!」
不機嫌な苦情を無視してころんはさらに叫んだ。
胸が痛くて叫ばずにはいられなかった。
『……嫌ですよ』
けれど、るぅとはどこまでも塩だった。
今だけじゃない。
この手を離れてからずっと。
思う通りになったことなんて全くなくて。
だからこちらも次第に煽るようになって。
「なんでだよ!怖いんだろ?!なんで捕まりに行ってんだよ!」
『怖いですよ?でも、別にわざと捕まろうとしてるワケじゃないです』
「は?」
『ちゃんと戦うつもりもあります。僕はころちゃんと違って感情のないロボットだから、撃つことに抵抗はないんです。だから安心してください』
その言葉に"撃つのは無理だ"と諦めていたことを見抜かれていたと知る。
最初からアテにされていなかったのかと、胸の痛みが増す。
そんなころんの気持ちを受け取ることはせず、るぅとはさらに続ける。
ころんは、自らのシャツの胸のあたりをぎゅっと握った。
アイツは、言葉で僕を○す気なんだろうか。そんなことを思い、歯を食いしばった。
『僕は相手のやり口を知ってるけど、ななもりさんは違うから。だから、ななもりさんを助けてください』
それは、客観的には正しい判断なんだろうと思った。
だけど、ころんは頷けなかった。
頷きたくなかった。
それなのに、アイツは何も分かってなくて。
『平気でしょ?アナタは僕が嫌いだから』
何をどうしたら、そうなるんだろう。
どこで何を、間違えていたのだろう。
そんなことを、こんな時に知るなんて。
『僕は、それでも好きで…………っ!』
そして、唐突に繋がりが切れた。
「るぅと!おい、返事しろよ!!るぅと!!なぁ!!?」
ころんをどこまでも置き去りにして。
なんの否定も、反論もさせないまま。
どれだけ呼びかけても戻らない通信。
少しも落ち着けず、部屋の中をウロウロと歩き回っていたころんは、ある場所で立ち止まった。
目を見開き、震えた手で見つけてしまった"それ"を手に取った。
キャビネットの上に、さりげなく置かれたままのハンドガン。
「ウソつきじゃん、お前……」
ころんは冷たいそれを抱きしめて、その場にひとり蹲った。
莉犬は賢いから、きっと大丈夫。
莉犬の言葉なら、みんなを変えられる。
皆が前に進むための踏み台は僕にぴったりの役目だとるぅとは自嘲した。
だからこそ、失敗はできないと。
「さよなら、ころちゃん」
るぅとはゆっくりと振り返ると、腰ほどの高さのバルコニーにもたれかかった。
そして、じりじりと獲物を追い詰めようとする二体の鬼に鮮やかに笑いかけると、軽く跳んでバルコニーに腰掛けた。
「残念でした。捕まってあげない」
このまま落ちれば、誰の足枷にもならずに済む。
怖さはなかった。
目を閉じ、頭をじわりと後ろへ下げた。
「るぅとくん!!」
その声はホールから聞こえてきた。
動きを止め、ちらりと視線を向けたるぅとが見たのは、ハンドガンを携えたさとみの姿だった。
「やめろ!お前が死んだらころんはどうなる!?俺達が絶対に助けるから、今は……っ」
「なんで……ころちゃんが?」
苦しげなその叫びに、るぅとは戸惑った。自分がどうなろうと、一番どうとも思わなそうな人なのに。馬鹿だなって鼻で笑ってそれで終わりそうなのに。
──でもあの人は、誰にでも優しいから。
「っ……!」
一瞬の動揺の隙を相手は見逃さなかった。左右から両腕を捕まれ、引きずり降ろされ、るぅとは逃れようともがいた。
こんなの違う。
こんなんじゃ、ダメなのに!
「るぅと!!」
さとみが鬼に向けて照準を合わせようと銃を構えていた。その顔は、焦りと迷いの中にあるように思えた。
そんな彼に向けて、るぅとは叫んだ。
「さとみくん!僕は平気だから、右奥の控え室に行って!ころちゃんを手伝ってあげて!!」
僕なんかのために、傷を負わなくていい。
「なーくんを、助けてあげ……っ!」
みぞおちに与えられた衝撃に、るぅとは息を詰め、身体を折ってその場に崩れ落ちた。
咳き込む彼の耳に、さとみと、この状況が見えないはずの莉犬が懸命に彼の名を呼んでいる声が聴こえたような気がした。
情けないな。
やっぱり僕は、
足手まといになってしまうのか。
鬼を道連れにして木っ端微塵になれたらいいのに。
何も持たない彼はそんなことを思いながら、せめてもの意趣返しに、最後の力を振り絞った。
全力の悪意で鬼の片割れの頬を立ち上がりざまに思い切り引っ掻いたるぅとは、代償として他の鬼から背を蹴られ、皮肉にも抱きつくようにして鬼に捕まった。
白い首に厚みのある浅黒い手が掛けられ、そして宙にその身体が吊られる。
「なんだ。────じゃないじゃん」
鬼を見下ろした彼は、疲れた声で微かに笑って呟き、ゆっくりと瞳を閉じた。

