数学と美しさ
「数学」と「美(しさ)」、この2つの言葉を1つの文に収めるなんて、信じられない!と言う人がいるかもしれない。
「数学」に対して、大抵の人が抱くイメージは、いやーな計算が延々と続く、点Pとかマジなんなん?数学はクソ教科!というものである。
確かにあまり美しい眺めとはいいがたい。だが、それは算術であり、数学ではない。
記号をいくらか並べたとしても、数学が持つ真の美しさに近づくことは出来ない。
あのベートベンの交響曲の美しさが音符だけで表現できないのと同じである。
数学の美しさは記号や数字にあるのではない。その「概念」にある。
ただ鍵盤を叩くことではなく、音の調和の中にある。
数学の美しさには主に2つあると、私は考えている。
論理的な美しさ、視覚的な美しさ、この2つである。
「冷たく厳しい美しさ」と哲学者で数学者でもあるバートランド・ラッセルは数学の美しさをこう評したという。
ここでは論理の美しさを指している。内容が分かる者にとっては数学の証明は論理の交響曲と呼ぶにふさわしいだろう。
この種の美しさは頭で理解するものであり、馴染みのない人にとっては実感しにくい、わけのわからない領域だろう。
一方!視覚的な美しさは誰の心にもじかに響く。と私は思っている。
身の回りには規則的な形や模様のサンプルに溢れているが、どれも大体は数学的プロセスによって生まれたものである。
数学と美しさの結びつきは紛れもなく本物であるが、容易には捉えがたい。
それに、モデル化された数学的なパターンは自然や芸術に比べると、少し規則的すぎて、美しいとはみなしがたいとの声もあるだろう。
しかし、現に私たちの視覚は複雑で反復的なパターンに引きつけられるようである。
つまり、対称性だ。私たちは対称的なイメージを身の回りに置いている。それは、壁紙やカーテンなどだ。
対称性の何が私たちの感覚に訴えるのだろうか。人間の精神というものは反復を楽しむようである、、ある程度までは。
子供は同じ物語を何度も何度も何度も何度も何度も聞きたがる。音楽も一番原始的なレベルで見れば、雑音の周期的な
反復で成り立っている。又、一番高度なレベルで見れば、主題と演奏がある。これは少し異なるパターンを繰り返したものを織り合わせたもの
といえる。私たちの脳が、進化してきたこの世界では、パターンを認識できる能力があると生存確率が高まる。季節の移り変わりが理解できれば、
食糧を得られる。
人間の精神というものは沢山のモジュールでできていて、モジュールどうしは互いに連絡を取っている。
そういうふうに進化したのは、私たちの生き延びる確率が高まったからだ。人間が持っている美を感じる能力と数学をする能力は、このモジュールの活動によって得られた産物ではないだろうか?大抵の人はある種の風景画を好むらしい。水があり、動物がいて、木が何本か(多すぎては駄目)生えている。
ほとんどの人はこうした風景を素早く認識することができる。もしそうなら、この能力というものは生まれながらに組み込まれた反射行動に違いない。
何かが猛スピードで飛んできたらとっさに目を閉じるように、すぐに回路がつながる仕組みがあるのだ。反射行動が進化したのは、正確に反応するより、迅速に反応する方が好ましいからである。では、風景にどんなメリットがあるのだろうか。それは安全だ。先程説明したような風景には人類の祖先に必要な要素がすべて備わっている。食糧、水などだ。木があれば登ることもできるだろう。ただし、たくさん生えているのは困る。それはなぜか。自分を狙う猛獣が身を潜めている可能性があるからだ。
正しいか間違っているかはさておいて、なかなか良くできた仮説である。この説から見えてくるのは、私たちの美的感覚が実に興味深く、また、ある種のパターンを好み、そのパターンを見つけだす能力が美的感覚に関わってくるのも分かる。私たちの精神はパターンを見出すことに関して、高度に進化した目を持っている。
数学とは、その心の目を利用するために人間が編み出した体系的で半ば意識手な技法といっていい。数学と美を結びついていると考えても少しもおかしくはないのだ。
さて、ここまで私の考えを語ってきたのだが、皆さんはどうお考えだろうか?