河野大輔くん児童虐待死事件

7 2023/10/11 23:03

こんにちは!私は両親から小さい時から虐待を受けていたのがきっかけで、将来、児童虐待防止の中心的役割を果たす「児童福祉司」という仕事を目指している中学生です。虐待で辛い思いをする子、亡くなる子供が少しでも減るよう、このブログで少しでも児童虐待防止のお手伝いが出来たらなと思います。私の名前とプロフィール画面にあるオレンジリボンは児童虐待防止のシンボルマークです。

*今、児童虐待を受け、悩んでいるお子さんや、子育てに悩んでいる親の方たち、もしよかったら雑談チャットにお越しください。相談に私でよければ、乗ります!😄

他にも、児童虐待に関する質問などあったら、回答します!

今回の記事...1998年に福岡県福岡市東区で起きた6歳の河野大輔くんが虐待死した事件を取り上げました!

事件の概要


事件で亡くなった子ども...河野大輔くん(6歳男児)

事件の加害者     ...「実父」河野圭一(30) 「実母」河野恵理子(34)

発生地        ...福岡県福岡市東区

虐待の種類      ...身体的

虐待理由       ...言うことを聞かなかったため、母親が代理ミュンヒハウゼン症候群だった。

死因         ...凍死

通告・保護      ...なし

亡くなった日     ...1998年1月7日

事件の内容


事件の経緯↓

大輔くんが1歳の頃、母親が別居します。その1ヶ月後には、父親の圭一さんも実家を出てしまい、大輔くんは以降圭一の両親(大輔くんの祖父母)に養育されました。

両親はその3年後に離婚しました。

一方の恵理子さんもまた、恵まれない幼少期を経て、18歳頃に結婚、すぐに子供を産みました。そして1993年までの間にほぼ1年から2年の間隔で5人の子供を産んでいます。

しかし平成7年6月には離婚、育ち盛りの子供5人の親権者となった。

二人の出会いは恵理子さんが離婚する1年前、テレクラである。

この時点で恵理子はまだ既婚者であるが、それが原因だったかどうかは別にして、恵理子の離婚が成立した直後から二人の交際はより親密になったという。

1995年2月には事件当時の住居で同棲を始め、翌月には婚姻届をおそらく妊娠を機に提出します。圭一さんは恵理子さんの5人の子供と養子縁組をしました。

大輔くんを実家から引き取ったのもこの頃です。同じように、恵理子さんも大輔くんと養子縁組をしました。

その後7月には二人の間の第一子が、さらにその1年後の平成9年7月に第二子が、そして事件後の平成11年5月にも子供が産まれています。

圭一さんと大輔くん、恵理子さんとその連れ子たちでの生活が始まってすぐの4月、大輔くんは幼稚園に入園します。しかしほとんど通わず5月に退園、その後平成9年の3月までの1年間で保育園を二つ変えました。

事件当時に通っていたA保育園には、5歳児クラスと4歳児クラスに大輔くんと恵理子さんの連れ子二人が、その他0歳児クラスには圭一さんと恵理子さんの生まれたばかりの子供が在籍していました。

入園当初から、大輔くんは「異様」でした。

「飢えている」と言うほど、大輔くんの園での食欲は異常でした。しかも給食だけでは飽き足らず、盗み食いすることもあったといいます。

他にも、毎日汚れた同じ服を着せられていたり、体のあちこちに生傷が絶えませんでした。時には目の周りにどす黒いアザをこしらえてくることもありました。

入園から1ヶ月後の5月、大輔くんは頭から血を流して登園してきました。仰天した保育士らが頭を見ると、そこには申し訳程度の絆創膏が貼られただけで、大輔くんの頭部はぱっくり割れていたといいます。病院では2針縫う処置がとられました。

明らかにおかしい。同じ園に通う他の恵理子の子供らには、異常は見られなかったことも、保育士らに不安を抱かせました。

「おうちで何かされたと?」

保育士らが大輔くんに聞いても、大輔くんは何も答えません。大輔くんはこの頃からすでに生気の失せたような状態になっていました。

園では母親の恵理子さんについても対応に苦慮していました。

あまりに汚れた服を着せられているので、他の園児への衛生面の配慮もあったのでしょう、園の着替えを着せたことがあったといいます。

すると恵理子さんは、感謝するどころか「大輔を特別扱いした!」と言って起こりました。

ある時は空の弁当箱を持たせていたため事情を聞くと、「大輔が登園前に弁当を食べたから(そのまま持たせた)」と言う返答。

さらに、家での食事の注意をすれば過度に食事させて大輔くんをあからさまに太らせる、頭にシラミが湧いていることを伝えると、大輔くんを丸刈りにするなど、極端な対応をわざとしている節がありました。

他人に指摘されると被害者意識が芽生え、対抗するために感情的かつ、やりすぎと思えるほどの対応をする恵理子さんに対し、大輔くんも態度が頑なになっているようでした。

正月、圭一さんと家族は全員で圭一さんの実家へと新年の挨拶に出かけました。そこで、祖父母らから子供たちはお年玉をもらったといいます。

5日になって、子供達のお年玉からお金が抜かれていることが発覚。圭一さんと恵理子さんはもともと「盗み癖」があったという大輔くんの仕業と決めつけ、大輔くんを厳しく問い詰めました。

しかし反抗的な態度を示した大輔くんに対し、恵理子さんは外で立っているように言いつけます。そして、他の子供たちを連れて外出し、夕方弁当を買って帰宅すると、大輔くんはまだ外にいました。

「弁当を見せて、本当のことを言えば食べさせてやると言え」

圭一さんにそう言われた恵理子さんは、腹をすかせているであろう大輔くんに、弁当をちらつかせて再び問いただしたが、そこでも大輔くんは曖昧な返事しかしなかったという。

「ほっとけ。(金のありかを)言えば済む話だ。言うまで俺は知らん」

大輔くん以外の子供らに食事をさせたあと、圭一さんと恵理子さんは大輔くんがもう手に負えない、という話をし、そしてそのままこたつで眠り込んでしまった。

恵理子さんが気づいたのは、翌日の昼だった。外のベランダの室外機のところに倒れている大輔くんを抱き起こしたが、大輔くんはもう冷たくなっていた。

当初警察は、事情聴取での憔悴しきった恵理子の様子や、お仕置きで外に立たせた「だけ」のつもりが結果として死亡に至ってしまったと判断し、事故として処理すると発表しました。しかし、大輔くんの体に残された数々の傷跡や、保育園での聞き取り、そして当初は昼に発見するまで気が付かなかったと話していた恵理子さんが、実は早朝の3時頃に外にいる大輔くんを確認していたこと、にもかかわらず家に入れるなどせず、さらには朝他の子供らを登校させる際にすでに室外機のあたりで大輔くんが倒れていたことにも気づいていたことから、保護責任者遺棄致死に問えると判断しました。圭一さんについては日頃の暴力行為と、あの夜家にいれるなと恵理子さんに指示していたことなどで傷害と保護責任者遺棄致死での書類送検となりました。恵理子さんは大輔くんが倒れていることを知りながら、他の子供らの世話を優先させていました。

裁判↓

平成13年から始まった裁判では、圭一さんによる大輔くんへの暴行と、恵理子さんの日頃の大輔くんとの関わり方などが明らかになったが、その中で大輔くんの「育て難さ」も明かされました。大輔くんは知的な問題はさほど深刻ではないとされたが、生前大輔くんを診察した小児精神科の医師によれば、名前を呼んでもすぐに反応しない、箱庭療法において、動物の模型に過度な攻撃を加えるなどの様子が見られたといいます。また、大輔くんの特徴として恵理子さんは、「2歳の頃から毎日の盗癖。夜中に起きてまで(盗みを)する。自分の持っていないもの、他人のものをわざと壊す、集団生活ができない、目立つためにわざと困らせるようなことをする、排泄物の汚さがわからず、大小便で遊んだりする」と言う悩みを小児科医に相談していました。

ただ、これらのことは恵理子さんの主観であり、どこまでが本当かは怪しいと言わざるをえないが、一方で第三者の診断もありました。

1997年の7月頃、恵理子さんが出産のため、大輔くんを一時的に児童養護施設に預かってもらっていたことがありました。その際、大輔くんの心理判定を行なった判定員によれば、大輔くんは情緒的な面で攻撃性が高く、心配な面があったといいます。落ち着きもなく、感情が昂った際、それを制御できないという面もありました。

恵理子さんはその結果を聞かされ、圭一さんとの間で大輔くんを児童養護施設に入所させることも検討し、保育園では園長が関係機関に連絡をして大輔くんを保護する必要があるという判断で圭一らにも伝え、一時は圭一さんも恵理子さんもそれを了承していました。しかし突然、「みんなが自分たちを悪者扱いしている!」などと恵理子さんが言い出し、施設入所は白紙になってしまいました。

大輔くんが育て難い面があったのは事実で、関係機関も含め、大輔くんを施設に入所させる方向で話がまとまっていたのはむしろ、恵理子さんと圭一さんにとってもいいことだったはずです。ただ、大輔くんを診察した小児科医によれば、恵理子さんは医師に対し、「周りの反対を押し切ってまで大輔くんを引き取り、自分のこの世話を差し置いてでもこの子の世話をしているという、健気な母親であるかのような話をされる。多弁で、この子のために苦労していることをむしろ自慢しているかのような印象を受ける。世話に疲れた印象は感じられない。話が全て本当かどうかは怪しい。施設入所予定であるのに当科(小児精神科)を受診し、評価を求められる真意が不明」と話していたことをカルテに記していました。

恵理子さんは保育園への送り迎えも一手に引き受けており、圭一さんよりも遥かに大輔くんに接してはいました。しかし、医師が言うように、こんなに育てにくい子をしかも自分の子でもないのに一生懸命育てている私、に酔っていたような印象があります。

大輔くんに手を焼きながらも、唯一の自分の存在価値を見出せるのが、育て難い大輔くんの存在だったように思うのです。だからこそ、児童相談所から救いの手が差し伸べられても、拒絶しました。取り上げられては困ったのです。苦労している自分を演じられなくなってしまうから。

裁判中も、恵理子さんは検事から親としての自覚のなさを問われると、「何が言いたいんですか?!」「あなたが言うようなことはありません!」と、ムキになって言い返す場面もありました。

直接的な虐待死ではないものの、司法解剖された大輔くんはあの朝5時までは生きていた可能性が高かったです。3時の時点で家に入れていれば、死なずに済見ました。小さな遺体には、頭部、顔面に皮下出血、背部、腰部、臀部に円形の瘢痕、左右前腕、左手背に円形、楕円形の瘢痕、左右上肢、下肢に表皮剥脱が見られました。また、胃のなかに固形物はなく、胸腺は高度に萎縮して実質が確認できず、左右の上肢は下腿から足にかけて浮腫状となっていました。円形の瘢痕はいずれも火傷によるもので、お灸をすえられたか、もしくはタバコの火を押し付けたようなものでした。胸腺の状態から見ても、大輔くんが長期間強度のストレス下にあったことは明白でした。

福岡地裁の谷敏行裁判長は、

「衰弱した末、齢6歳にして自宅の庭で凍死したもので、その間、被害者が長期間にわたり強度のストレスにさらされていたことは、その遺体に残る多くの傷跡や、胸腺がほとんど消失していたことからも明らかであって、誠に悲惨としか言いようがない」とし、裁判でも終始自己弁護を繰り返していたこの二人を厳しく批難しました。

しかし、判決は懲役3年、執行猶予5年という結果でした。理由は、家に残った8人の子供の存在でした。

どうすれば助けられたのか


どうすれば助けられたのか↓

・母親の代理ミュンヒハウゼン症候群の治療をすればよかった

・あざや異常な食行動があった大輔くんを保育士らが通告すればよかった

・あざや異常な食行動があった時点で、一時保護、または児童養護施設に保護するのを検討するべきだった

河野大輔くんが来世ではもっと幸せに生きられますように


亡くなった河野大輔くんのご冥福を、心からお祈りします。こんな形でしか亡くなった河野大輔くんが生きていたことを証明できませんが、こういった事件が二度と起きないよう、皆さんにお願いがあります。児童虐待の疑いがある子を見かけたら通告をお願いします!😊 通告方法は簡単です。電話で189に電話するだけです。「いちはやく」で覚えられます。通信料も要りません。匿名でも大丈夫です。秘密も守られます。あなたの通告がその子どもの希望です。

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