小説 紅影④

3 2026/05/21 14:21

比叡山と呼ばれる森の奥。

そこに小さな拠点があった。

木造の建物だ。

門をくぐると、外の気配はすっと遠ざかり、空気までもが静まり返ったように感じられる。

石畳の小道の脇には、手入れの行き届いた松や椿が並び、朝露を残した葉がきらりと光っている。庭の奥には小さな池があり、鯉がゆったりと水面を揺らしていた。

正面の本堂の縁側からは、古びた木の香りが漂う。庭全体が一枚の絵のように広がり、遠くの杉林からは、かすかに風が葉を揺らす音が届いていた。

ラカールが言う。

「寺みたいだな。懐かしい……灰灯だ」

ハルは聞き返した。

「なにそれ」

「組織の名前だ」

ラカールは歩きながら答える。

「理式師の集団で、この辺りで唯一、機械人間に対抗できる連中だ」

ハルは周囲を見回した。

人の姿は見えない。

「何人いるんだ」

ラカールは答える。

「五人」

「は?」

ハルは思わず声を上げた。

「少な」

ラカールは苦笑する。

「だからこそ、まだ生き残っている。先代から続く組織だ。ついでに漢字表記まで残ってる」

「漢字?」

ハルは首を傾げた。

二人は本堂へ入る。

ラカールが言った。

「隊長の神代浩壱(かみしろ こういち)は気難しい人だ。機嫌を損ねるなよ」

襖の前でラカールが立ち止まる。

「入ります」

すると、中から声がした。

「入れ」

襖を開く。

部屋の奥に、一人の男が座っていた。

灰色の髪。

鋭い目。

灰灯の隊長――神代浩壱だった。

神代はハルを見る。

数秒の沈黙。

そして言った。

「なぜ戻ってきた。ラカール」

神代の視線がラカールへ向く。

「……気が変わった」

神代が手を向けた。

「理式、傀儡追影(くぐつついえい)」

ラカールの背後に黒い気配が立ち込める。

それは一瞬で具現化し、甲冑を着た不気味な侍が現れた。

侍は刀を抜き、凄まじい速さで振り下ろす。

刃はラカールの首筋の直前で止まった。

「またやり合う気ですか。昔みたいに」

ラカールが言う。

神代は静かに答える。

「もう一度問う。なぜ戻ってきた」

二人の視線が交錯する。

その場に張り詰めた空気の中で、ハルはただ立ち尽くしていた。

(これが……理式師同士の戦い)

侍が再び刀を構えた。

ラカールが口を開く。

「天哭紅剣を見つけた」

侍の刀は直前で止まった。

神代が手を下げると、侍は黒い煙のようになり消えた。

「それが……紅剣か」

神代の視線がハルの腰へ向かう。

「少年、名は?」

「あ、草薙・ハルだ」

「漢字表記か」

「苗字だけ」

「そうか」

神代は小さく息をついた。

「聞こう。お前は人を殺したか」

ハルは迷わず答えた。

「殺した」

静かな空気が流れる。

神代は続けた。

「なぜだ」

ハルは少し考えて言う。

「みんなを助けるため」

神代は首を傾げる。

「本当に?」

沈黙。

神代は次の質問を投げた。

「では、ではなぜ母も死んだのか」

ハルの目が止まる。

「どうして、それを――」

笑って忘れようとしていた母の死。

だが消えるわけがない。

一度掘り起こされると、記憶が連鎖して蘇る。

神代は静かに言った。

「お前の剣が原因だろう」

空気が重くなる。

「助けるために振った剣。だが力を制御できず、村は滅びた。お前のせいだな」

「違う!」

とっさにハルは叫んだ。

「傀儡追影」

ハルは背後を振り向いた。

(いない……?)

そう思った瞬間、腹に衝撃が走った。

そのまま庭まで吹き飛ばされる。

ゴリラのような獣に殴られたのだ。

(これも理式かよ……)

ハルは立ち上がる。

神代が言う。

「傀儡追影が背後から来るとは言ってないぞ」

獣が突進してくる。

ハルはとっさに避けた。

神代が言う。

「答えろ。お前は何のために剣を振った」

攻撃が来る。

ハルは腕で防ぐ。

自分を守ろうとしたのではなかった。

「助けるためじゃない」

ハルが言うと、神代が再び聞く。

「じゃあ何だ」

ハルは静かに言った。

「止めるためだ」

風が吹く。

「俺は、殺されるのが嫌だった」

神代は黙る。まるでハルを見定めるように。

ハルは続けた。

「カルも、母さんも、俺も。みんな弱かった」

静かな声だった。

「だから終わらせるために振った。一か八か、自分が止めるしかなかった」

神代は少し笑った。

「なるほど。まさしく英雄だな」

ハルは首を振る。

「違う。多分俺は…」

神代は理式を解除した。

「生き残りたかっただけだ」

やっと、言えた。

虚飾に塗れることのない、本音だった。

死にたくなかった、生きたかったから、自分は剣を振るったのだ。

獣は黒い渦になり消えた。

「もういい。仲間として歓迎しよう」

神代は投げやりな口調でそう言った。

「は?」

ハルは首を傾げる。

神代は言う。

「正義を語る奴は信用できない。生き残りたいと言う奴の方が強い」

ラカールが言った。

「最初から追い出す気はなかったでしょう?我々のことも、最初から見ていた」

神代は肩をすくめた。

(見ていた?)

ハルは心の中でそう思った。

(どこから?というか、いつから?)

「鋼天機構が核戦争を起こした三百年前以来だ。天哭紅剣を持つ者の話を聞いてみたかっただけさ」

ハルの心情などどうでも良いように、神代は話を続けた。

「三百年? 核戦争?」

「今の世界が荒廃しているのは、三百年前の大戦争のせいだ。鋼天機構が起こしたらしいことは分かっているが、詳しい理由までは分からない」

そして言った。

「その三百年前、紅剣を扱う使い手がいた。だが、それ以降その者と紅剣の消息は途絶えた」

神代はハルを見る。

「そして今、その紅剣がお前の手にある」

ラカールが言う。

「鋼天機構と何か関係があるかもしれないな」

---

朝は静かだった。

森の奥にある灰灯の拠点は、まだ眠っているように見える。

薄い霧が庭を覆い、石畳の上に白く漂っていた。

池の水面には朝日がわずかに差し込み、鯉がゆっくりと影を揺らしている。

小川の流れる音だけが、かすかに響いていた。

ハルは井戸のそばで顔を洗っていた。

冷たい水が頬を打つ。

何度か水をすくい、頭にかける。

村にいた頃よりも、空気はずっと冷たく澄んでいる。

背後から声がした。

「早起きだな」

振り返ると、ラカールが立っていた。

眠そうな顔をしているが、目はしっかり覚めている。

「ラカールも早いじゃんか」

ハルは言う。

ラカールはそれには答えず、井戸の縁に寄りかかった。

「神代隊長直々の依頼だ」

淡々と告げる。

「フジ村に居座っている機械人間を討伐する」

ハルの手が止まる。

「機械人間を……討伐?」

ラカールはうなずいた。

「お前は正式な隊員ではない。よって拒否権を認める」

わずかに笑う。

「返答は?」

ハルは少しだけ考えた。

昨日の戦い。

カルの死。

母の死。

そして、あの機械人間。

ハルは立ち上がる。

井戸の水滴が地面に落ちる。

「その討伐」

静かに言った。

「受けよう」

ラカールの口元がわずかに緩む。

「そう言うと思った」

森の向こうから、朝日が差し込む。

霧がゆっくりと晴れていく。

灰灯の一日が、静かに始まろうとしていた。

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