小説 紅影⑦

2 2026/06/12 09:34

京都は、壁だった。

正確には「壁で囲まれた都市」だった。

崩れた旧文明の高層建築の上に、新しい構造物が重ねられている。

鉄と木と石が混ざり合い、都市そのものが歪んだ生き物のように息をしていた。

門の前で、ハルは立ち止まる。

「……でけぇな」

門の上には巨大な紋章。

剣と歯車が絡み合った印。

――

半日前。

灰灯の拠点は、朝の霧に沈んでいた。

庭の石畳は湿り、松の葉から落ちる水滴が静かに音を立てている。

石畳の脇には、手入れされた松や椿が並び、朝露を残した葉がきらりと光っていた。

小さな池では、鯉がゆったりと水面を揺らしている。

「私は、これから何を思って、どう生きていけばいいの」

ナツの声が、頭の中によみがえった。

不意に水面が揺れた。

鯉たちが激しく動き始め、一点に集まっていく。

神代が、小さな金属箱から餌をやっていた。

「辛いんだろ」

不意に、神代がそう言った。

「は?」

ハルは思わず聞き返す。

「人が目の前でたくさん死ぬ。嫌なことだろうな」

彼はそれだけ言った。

沈黙が落ちる。

どう反応すればいいのか分からず、ハルは視線を部屋の方へ向けた。

一つの部屋では、ラカールが机に向かい、ひたすら書物をあさっている。

何をしているのかは分からない。理式の研究か、それとも別の何かか。

「お前、少し外へ出ろ」

ハルは瞬きをした。

「は?」

神代は続ける。

「京都へ行け」

「京都……?」

「気分転換だ」

ハルは一瞬、意味が分からなかった。

彼は淡々と言う。

「休暇かよ」

「休暇だと思うなら行かなくていい」

彼は一拍置いて言葉を落とした。

「京都で“紅燐祭”が始まっている」

その瞬間、空気が変わった。

ハルはそれを知らない。

「こうりんさい?」

彼は答える。

「京都の武道大会だ」

「大会?」

「勝者は剣豪貴族に列せられる」

ハルは眉をひそめる。

「武道……貴族?」

庭に風が通る。

神代は続けた。

「紅剣の過去の使い手も、そこにいたらしい」

「過去の使い手が……?」

「そうだ」

神城はハルを見る。

「お前はまだ未熟だ」

その言葉に、ハルは何も言い返さなかった。

事実だからだ。

彼は立ち上がる。

「だから行け。見てこい」

「……何を」

神代は短く言う。

「世界をだ」

――

京都の中央通り。

「豊国通り」と呼ばれるその大通りは、文化と歴史の集積そのものだった。

二千年の歴史を持つ大都市・京都。

その中心を貫く目抜き通りである。

ハルは胸を躍らせながら歩いていた。

「なんだよこれ、休暇じゃん」

さまざまな人々が行き交う。

僧侶の姿を見つけては興味深そうに眺め、

華やかな着物を着た人々には目を奪われる。

「過去の使い手……か。それなら」

一通り歩いた末、ハルがたどり着いたのは歴史博物館だった。

彼の頭からは、鋼天機構だの紅燐祭だのという言葉は一度消えていた。

館内では、さまざまな展示が並んでいる。

寺社仏閣の記録、茶器、古い生活文化。

その中に、一枚の古い写真があった。

車輪のある乗り物が走り、人々が自然に行き交っている。

若い男女が並んで歩き、笑っている。

店先では料理が並び、店主と客が談笑している。

「これは、三百年前の様子を記録した写真の一つです」

館長の老人が、隣で説明した。

「核大戦がなければ、今もこうだったのかもしれませんな」

昼は屋台で軽く食事を取り、午後は寺社を巡った。

黄金に飾られた寺を見上げているうちに、日が傾いていく。

「もう時間だ」

ハルは急いで門へ向かった。

灰灯へ戻るためだ。

ゴォーン――

閉門の音とともに、門はわずかに早く閉じた。

「あぁ……」

ハルは立ち尽くす。

――

銅貨二枚。

それだけで今夜をしのがなければならない。

だが京都には旅館ばかりで、まともな宿はない。

夜の路地裏を歩く。

左には荒れた人影、右には華やかな通りの残り香。

「大丈夫か、若いの」

背後から声がした。

振り返ると、痩せた中年の男が立っている。

ぼろ布のような服を着ていた。

「宿を探してる。できるだけ安い」

ハルが言うと、男はうなずいた。

「いい宿を知ってる。知り合いの店だ。案内しよう」

男は微笑む。

(……怪しいな)

ハルは警戒しつつも、後をついていった。

「嫁家族に捨てられてな。それ以来、俺はずっと世話になってる」

たどり着いた店は、寂れた酒場のようだった。

名前は、『眠り猫』

中は薄暗く、静かな空気が漂っている。

「入るぞ」

男が扉を開けた。

中には荒れた男たちが座っている。

空気が重い。

そして、倒れている人影があった。

店主だった。

動かない。

「店主……?」

男が声を震わせる。

その瞬間、入口の扉が閉められた。

逃げ道が消える。

ハルは状況を理解しきれないまま、床に押し倒される。

「動くな」

つり目の青年が立っていた。

帯刀している。

「そのまま膝をつけ」

周囲の男たちが圧をかける。

案内してきた男は、ただ立ち尽くしていた。

「5、4、3、2、1……」

青年が淡々と数える。

「終了」

わざとらしく言うやいなや、青年は動いた。

見えなかった。

だが次の瞬間、青年が振った刀が、男の首を斬っていた。

男の首が、無作為に壁に吹っ飛ぶ。 首や壁は瞬く間に血で染まる。

「そんな…」

また、死んだ。 目の前で、人が死ぬ。

「罪状は、そうだ…機械人間との内通、とでもしておこうか」

青年はそう言い、刀を優雅に鞘に閉まった。

「さすが、さすがは雑賀・伊吹様だ!」 「おぉ!」

周りの男たちが、歓声をあげた。

「あ、俺雑賀・伊吹。漢字表記のな」

伊吹はハルにそう言った。

「なんで、殺す必要があった…」

腹の中で、小さいが黒い感情が沸き立つ。

「あぁ?一つは命令違反。そして、弱いからだ」

「弱い?」

「弱い奴は、死ねばいい」

伊吹は、冷たく言った。

決まってる。俺を抑えてる奴に蹴りを入れ、そのすきに逃げ出す。それしかない。

だが…

「弱い奴にだって、人生があったはずだ」

「あぁ?」 伊吹は意外そうに言った。

「皆、自分なりに必死に生きてた…たとえ弱くとも、生きてる意味が見当たらなくともだ」

「そんな当たり前のこと…」

「お前なんかに、切り捨てられる筋合いはない!」

その場の静粛が包んだ。

男たちがわずかに、心に何かをともし始める。

「そうだ…」

かすかに、そんな声がした。

(まずいな…)

伊吹は薄い笑みを浮かべながら、そんなことを考えていた。

(コイツラ自体は腑抜けの虫けらにすぎなかったが、このガキのせいで反抗心が芽生えてきやがった。ある程度は飼いならしておきたかったんだが…)

伊吹は軽く息を吐いた。

「そんなに大口叩くんなら…」 伊吹は続ける。

「協力してもらおう」

「はっ?」

「俺は紅燐祭に、優勝する」

伊吹の声が、ハルの心の中に透き通っていた。

ーーー

夜の暗闇は、全てを真っ暗にする。

灰灯拠点も、例外ではなかった。

「遅いな…」

将棋盤の前で座りながら、神代はかすかに呟いた。

「心配ですか」

将棋盤に向かい合って、ラカール・ビョウカンがいた。

拠点では、ただひたすら書物を読み、自己研鑽に勤しんでいる。

「紅燐祭が、すでに始まっている」

「強盗、殺人…京都での混乱は絶えません。下手をすれば、比叡山にも飛び火します」

ラカールが、次の一手を指してきた。

「紅燐祭は、武道大会などではない。それはハルも今頃分かっているだろう」

「問題は、彼が何に巻き込まれたか。下手したら、もう死んでいます」

ラカールに冷静に言われて、神代はため息をした。

「ラカール、お前は彼に、何を望む?」

神代の不意な問いは、ラカールを一瞬だけ困惑させた。

だが理知的な彼はすぐに平常に戻る。

「決まっているでしょう。

紅剣の継承者に足る素質を、磨かせる」

ラカールは、そう言った。

神代は軽く笑った。そして次の一手。

「いいだろう。ではお前に頼む」

彼は続ける。

「京都に行け。そして、彼を、導け」

「はっ」

ラカールは次の将棋を指す。

「あと、ハルに伝言だ。『目の前の光を、見失うな』と」

「光って?」

ラカールは思わず聞き返した。

神代はそれには答えなかった。

「負けているぞ、ラカール」

盤面を見ながら、神代は言った。

「投了するか?」

「いや、私が勝ってますよ。これを…」

ラカールは盤面の右のほうに指を近づけた。

その瞬間、彼は手を滑らせた。

駒が元の場所から勢いよく飛び散る。

「あ、やっちまった…すみません私不器用で」

ラカールは謝りつつも、頭を搔いた。

「もう良い」

神代はあきれつつ言った。

「ではこれで」

ラカールは再び元の表情に戻り、ふすまを開いて部屋を出ていく。

再び、静粛。

「…俺には息子が、二人いる」

不意に、過去の記憶が脳の中で反芻した。

神城の言葉ではない。かつて出会った、放浪者の言葉だった。

「どちらが紅剣にふさわしいか、お前が見極めるんだ。分かったな?」

今はもう消え去った、放浪者の声だった。

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その他2026/06/12 09:34:56 [通報] [非表示] フォローする
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