「美の沼」第二話 僕という人間について
〜『入江』から一年前〜
僕は都内のアパートで一人暮らしをしている大学二年生。そこそこの頭脳にそこそこの顔。一般常識は備えているつもりである。
かと言って僕がどこにでもいる普通の大学生というわけでもない。ちょっと異例の人生を送ってきたからだ。
三歳のとき小児がんを宣告されて以来、十二年間闘病生活を強いられてきた。病気そのものより、薬による副作用が僕にとって苦痛だった。きっと他の患者の人達もそうじゃないかと思う。僕は医者や両親がぼくを苦しめているのだと思っていた。何度も再発を繰り返し、院内学級にしか友達はいなかった。家よりも病院のほうが僕の安心できる場所になっていた。
そんな僕の入院生活が少しでも有意義なものになるようにと、僕の両親はスマホを早くから買い与えてくれた。僕にとってはそんな薄っぺらい板をくれるくらいなら外に行って思いっきりサッカーとか野球をしてみたいと思っていた。
小学三年生の秋のことだ。
最近入ってきた新米看護師が僕に食事を運びに来た。机に置かれたスマホには相変わらずひとつの手垢もなく、滑らかできれいだった。そんなスマホに彼女はなんのためらいもなく手を伸ばした。そしてまるで自分のもののように操作し始めたのだ。
『別に僕にはいらないんだから誰が触っても別にどうでもいいさ。あの人の指紋が最初につくのはちょっと嫌だけど。でもそれもどうでもいいや』
僕はそんなことをぼんやり考えながら黙ってご飯を食べていた。美味しくなかった。いつものことだ。僕は病人なのだから。
「....Oh, now I'm like a cicada. Oh, I want to see autumn. I wish autumn was long and painful. Then I would give up too....」
突拍子もなかった。
看護師さんの手の中でスマホが歌いだした。
透き通った声がぼくの耳に栓ををつくって頭の中でねじれるように踊りだしたのを覚えている。僕の耳元で歌がささやきかけた、ああ確かにそう感じたのだ。
Long bitter autumn
という歌だった。きれいな歌だった。英語で歌詞はわからなかったけれど、こんなにきれいな声なら歌っている人はきっと美しい人なんだろうなと思った。
そのとおりだった。
この歌の生みの親は世界的人気を誇る5人組多国籍ガールズグループ “MIKPO”。
キレのあるダンス、きれいな歌声、センスある曲、美しい姿、個性的な人柄など、彼女たちの魅力は数え切れないと、あの看護師さんが教えてくれた。彼女は昔からMIKPOのファンだったのだ。
そして一気に、本当に一気に僕はMIKPOの虜になった。なぜなら僕にはスマホがある。たった一つの曲を流しただけの看護師さんの指紋は、今や僕の何重にもなった手垢にすっかり閉ざされてしまった。MIKPOと僕が出会えるのはスマホだけだった。僕はそれでも良かった。初めてインスタでメンバーから返答がきたときには狂喜したものだ。
僕は彼女たちの中でも、最年少メンバーの“リュンヌ”が好きになった。イスラエル人と韓国人のハーフで、とてもかわいい。MIKPOの中で最も人気だったが、僕は迷わず彼女を推しに決めた。僕にMIKPOを教えてくれた看護師さんもリュンヌを推していた。だから僕は密かに彼女をライバル視した。おそらく彼女もそうだったと思う。そして僕らは親友になった。
両親は急に僕の人柄が明るくなり、看護師さんとも妙に親しくなったことについて詮索しようとはしなかったが、とても不思議がった。でも喜んでいた。
それからしばらくして、MIKPOが来日したときに、親友の看護師さんは倍率500倍の難関をくぐり抜け、奇跡的にLIVEのチケットを手に入れた。彼女は僕も連れていきたいと言ったが、僕は知っていた。彼女が一枚しかチケットを買っていないことを。彼女は看護師だから、僕の病状があまり良くないことを知っていたんだろうと思う。
彼女は一人でライブに行った。
僕は初めて、本気で病気を恨んだ。
しかし十五歳になって、急にがんが消えた。拍子抜けするほど、あっさりと。「高校の入学祝いだね」僕にがんを宣告した医者はそう言い、僕は無事病院を出た。
あの日も晴れた秋の日だった。
あのときの僕には、自由への一歩を踏み出す心の準備ができていた。
なぜなら、いつもMIKPOが一緒だったからだ。
✾
こんにちは。小説を書かせていただいてます。
第一話「入江」に続く第二話です!感想などコメントお願いします。
第三話は「女性X」です。お楽しみに!
>>2
第一話が出てるみたいですよ
もう読みましたか?
「入江」って調べたら出てくると思うんですけど