書けない男

6 2024/06/01 23:51

息が切れ、心臓が胸を突き破るように鼓動する。暗闇が迫り、茂みの中を駆け抜ける足音が背後に響く──────。

何度も振り返りながら、足元の枝を踏みしだいて逃げるが、追手の影がまるで悪夢のように近づいてくる。

夜風が冷たく、頬を刺すように吹き抜ける。汗が額を伝い、視界をぼやけさせる。だが、止まることは死を意味する。恐怖が身体中を支配し、思考を奪い去る。ただ逃げること、それだけが生き延びるための唯一の手段だ。

森の奥深くに進むにつれ、道はますます不明瞭になり、足元の感触が不確かになる。枝葉が顔や手に引っ掻き傷をつけるが、その痛みすら感じる余裕はない。

耳鳴りがし、全ての音が遠のく中で、追手の足音だけがはっきりと聞こえる。突然、足を取られ、地面に転倒する。呼吸が乱れ、泥の匂いが鼻を突く。

立ち上がろうとするが、足が震え、思うように動かない。絶望が全身に広がり、冷たい手が肩に触れるのを感じる。その手は力強く、逃れようとするも無駄だった。

視界が暗転する前に、鋭い痛みが全身を貫く。息が詰まり、視界が徐々にぼやけていく。最後に見たのは、満月が森の上に浮かび、冷たく輝く光だった。

                         *

夜の帳が深く降り、街は静寂に包まれていた。ネオンの光がぼんやりと滲む都会の片隅、私は一人、冷たいベンチに腰掛けていた。手には未開封のノートと使い込まれたペンが握られている。

どんなに頑張っても、ページは空白のままだった。街灯の明かりがぼんやりと道路を照らしている。迷路のような道に混乱しているとき、運良く黄色いタクシーが、私の周辺のもとへ走らせてきた。

私は反射的に手を挙げた。タクシーは滑るようにして彼の前で停車した。私はドアを開け、運転手に軽く会釈する。車内は暖かく、街の冷たい風から逃れることができた。

「どちらまで?」

運転手が私に目的地を訊く。

「×××-×××まで」

私の理性が狂ったのか、ライバル作家のマンションの住所を答えた。

「承知しました」

私は背もたれに身を沈め、外の景色をぼんやりと眺めると、タクシーは静かに走り出した。夜の街はまばらな灯りに照らされ、時折通り過ぎる車や歩行者の姿が影のように映った。

「にしてもこんな時間まで外にいるなんて、珍しいですね。 もしかして残業とかですか?」

運転手は可笑しく質問した。タクシー運転手はさりげなく質問を放ち、会話を繰り広げて固定客を増やすと聞いたが、まさにそれは本当だったのだろうか。

「いや…新作のネタを得るために、外で考えていまして…」

バックミラーを一瞥すると、運転手の表情が変わった。数秒の沈黙が車内を包み込んだ後、運転手が質問した。

「…ネタ…ということは、創作関係の仕事ですか?」

「まっ…まぁそういうことになりますね。 小説家をやっています。今井小路って芸名でやってました」

運転手は小さく笑いの表情を見せ、私の回答に答える。

「あっ…聞いたことがあるな。あのベストセラー小説ですよね?私も度々よく読んでいました」

私は軽い苦笑いを浮かべ、過去の栄光を思い出す。毎日のように出版社からの依頼が殺到し、多額の収入がもらえ、創作に溢れていたあの日々を。

「私はもう、何も書けなくなったんです。 ネタを失い、友人を失い、出版社からの信頼も失い、創作をする勇気も…全て失いました。 ただ、私には残された金と過去の記憶だけがあるだけです」

私は過去の記憶を淡々と語った。崩れた友人関係に信頼、そんな最中に持ちきりとなる過去の栄光の小説の話題。私は運転手に殆どの記憶を話し続けた。

「仕事をしなくても、金は私に次々と舞い込む。けれど、私の好奇心は金にも創作にも向かなくなったんです。

 そして私はネットで下手な小説を投稿して、お世辞のコメントをもらって次第に自分の立場を崩していって、それで…小さなネットという少数の世間で満足をしていったんです」

運転手の表情が次第に深刻な相好に崩れ、同時に目が涙ぐんでいく。そして運転手は間を置きながら、少し頷いて語り出した。

「私も、昔音楽プロデューサーをしていました。20代後半の頃から有名な歌手のプロデューサーをして、ずっと家族や子供を養ってきました。

 渋谷でよく流れるような若者向けの曲、渋い大人向けの曲など、色々な曲に携わっていました」

彼の話には妙な説得力と哀しさがあった。内容は幸福なものなのに、何故か私の感情に嬉しさがなく、胸に何かが空いたような、孤独の感情が私を突き動かしていた。

「けれど、わっ…私は音楽を……作れなくなりました…」

窓に視線を移すと、話に共感するかのように、味気ない大雨が街に降り注いでいた。同時に、私の額に汗が滲み出す。

運転手は、悲劇の主人公のような表情から一転、次第に怒りと屈辱が湧き出したような表情と化す。

「それは…なぜですか?」

「私の娘が、5年前山奥で殺されました」

「まさか西本綾…のことを言っているのか?」

地を貫くような雷が、その言葉を光と轟音で遮る。私は息を呑んだ。段々と鼓動が早まり、強くなっていく。

「娘は何度も刺され、出血多量で亡くなりました。娘はあなたと同じ小説家で、あなたと同じ有名な人気作家でした。そしてあなたはライバルだと思った娘に怒りを感じ、別荘に連れ込み、山奥で殺した。

 違いますか?」

あの日、私は確かに彼女に連絡を取り、食事を交わし、彼女を別荘に招待した。そして眠らせて山奥で追いかけ回し、彼女を刺殺した。

私に取って彼女は唯一邪魔で、創作を遮る敵だった。私よりも売れっ子で、地位を固め、賞賛される彼女が醜かった。だから私は彼女を殺した。

「もうあなたに罰を与えるしかありません」

嫌な予感が脳内を駆け巡る。私は急いでスマホに耳を傾けて警察に電話を掛けるも、電話は一向に繋がらず、電話の音だけが車内に響き渡る。

私にはそれが、死の宣告に聞こえた。

「娘は決してあなたを敵視していたわけではなかった。娘はむしろあなたを尊敬していた。家でいつもあなたの話をし、あなたが連絡をくれたときはとても喜んでいた。

 あなたはそんな人を奪ったんだ」

​私は無我夢中でフロントドアの取手を掴み、押し込むもドアは開かない。

「頼むから出してくれよ​!​確かに俺は娘さんを殺した!自首するから勘弁してくれよ!だから殺さないでくれ」

私の必死に願望に、運転手は冷酷な声で私に言葉をつき放った。

「自首?自首しても娘は戻ってこない。彼女は死の宣告も受けるわけでもなく、あなたに何度も何度も刺されて、殺されたんだ。

 今日まで五年間、私はタクシー運転手として、ネットの目撃情報を頼りに、必死にあなたを探し続けた」

すると、火の匂いが運転手の方から鼻を突く。私は咄嗟に窓を開けて脱出しようと、懸命に窓を叩くも、窓は開かない。

段々と火が体につき、皮膚に刺激する。必死に窓を叩くと、外の景色に私が殺害した女が、ワンピース姿で立っていた。

「父さん、今​いく​からな…」

いいねを贈ろう
いいね
6

このトピックは、名前 @IDを設定してる人のみコメントできます → 設定する(かんたんです)
画像・吹き出し


トピックも作成してみてください!
トピックを投稿する
その他2024/06/01 23:51:05 [通報] [非表示] フォローする
TTツイートしよう!
TTツイートする

拡散用



男の自我というか

理性が欠けていく感じの描写っていうか、あとその場の情景を言語化するのが上手というか雰囲気がすごい伝わってくる  私別に小説齧ってるわけじゃないけどこの話面白いって感じた!!!れ!


>>1
ありがとうございます!


画像・吹き出し

トピックも作成してみてください!
トピックを投稿する