書けない男
息が切れ、心臓が胸を突き破るように鼓動する。暗闇が迫り、茂みの中を駆け抜ける足音が背後に響く──────。
何度も振り返りながら、足元の枝を踏みしだいて逃げるが、追手の影がまるで悪夢のように近づいてくる。
夜風が冷たく、頬を刺すように吹き抜ける。汗が額を伝い、視界をぼやけさせる。だが、止まることは死を意味する。恐怖が身体中を支配し、思考を奪い去る。ただ逃げること、それだけが生き延びるための唯一の手段だ。
森の奥深くに進むにつれ、道はますます不明瞭になり、足元の感触が不確かになる。枝葉が顔や手に引っ掻き傷をつけるが、その痛みすら感じる余裕はない。
耳鳴りがし、全ての音が遠のく中で、追手の足音だけがはっきりと聞こえる。突然、足を取られ、地面に転倒する。呼吸が乱れ、泥の匂いが鼻を突く。
立ち上がろうとするが、足が震え、思うように動かない。絶望が全身に広がり、冷たい手が肩に触れるのを感じる。その手は力強く、逃れようとするも無駄だった。
視界が暗転する前に、鋭い痛みが全身を貫く。息が詰まり、視界が徐々にぼやけていく。最後に見たのは、満月が森の上に浮かび、冷たく輝く光だった。
*
夜の帳が深く降り、街は静寂に包まれていた。ネオンの光がぼんやりと滲む都会の片隅、私は一人、冷たいベンチに腰掛けていた。手には未開封のノートと使い込まれたペンが握られている。
どんなに頑張っても、ページは空白のままだった。街灯の明かりがぼんやりと道路を照らしている。迷路のような道に混乱しているとき、運良く黄色いタクシーが、私の周辺のもとへ走らせてきた。
私は反射的に手を挙げた。タクシーは滑るようにして彼の前で停車した。私はドアを開け、運転手に軽く会釈する。車内は暖かく、街の冷たい風から逃れることができた。
「どちらまで?」
運転手が私に目的地を訊く。
「×××-×××まで」
私の理性が狂ったのか、ライバル作家のマンションの住所を答えた。
「承知しました」
私は背もたれに身を沈め、外の景色をぼんやりと眺めると、タクシーは静かに走り出した。夜の街はまばらな灯りに照らされ、時折通り過ぎる車や歩行者の姿が影のように映った。
「にしてもこんな時間まで外にいるなんて、珍しいですね。 もしかして残業とかですか?」
運転手は可笑しく質問した。タクシー運転手はさりげなく質問を放ち、会話を繰り広げて固定客を増やすと聞いたが、まさにそれは本当だったのだろうか。
「いや…新作のネタを得るために、外で考えていまして…」
バックミラーを一瞥すると、運転手の表情が変わった。数秒の沈黙が車内を包み込んだ後、運転手が質問した。
「…ネタ…ということは、創作関係の仕事ですか?」
「まっ…まぁそういうことになりますね。 小説家をやっています。今井小路って芸名でやってました」
運転手は小さく笑いの表情を見せ、私の回答に答える。
「あっ…聞いたことがあるな。あのベストセラー小説ですよね?私も度々よく読んでいました」
私は軽い苦笑いを浮かべ、過去の栄光を思い出す。毎日のように出版社からの依頼が殺到し、多額の収入がもらえ、創作に溢れていたあの日々を。
「私はもう、何も書けなくなったんです。 ネタを失い、友人を失い、出版社からの信頼も失い、創作をする勇気も…全て失いました。 ただ、私には残された金と過去の記憶だけがあるだけです」
私は過去の記憶を淡々と語った。崩れた友人関係に信頼、そんな最中に持ちきりとなる過去の栄光の小説の話題。私は運転手に殆どの記憶を話し続けた。
「仕事をしなくても、金は私に次々と舞い込む。けれど、私の好奇心は金にも創作にも向かなくなったんです。
そして私はネットで下手な小説を投稿して、お世辞のコメントをもらって次第に自分の立場を崩していって、それで…小さなネットという少数の世間で満足をしていったんです」
運転手の表情が次第に深刻な相好に崩れ、同時に目が涙ぐんでいく。そして運転手は間を置きながら、少し頷いて語り出した。
「私も、昔音楽プロデューサーをしていました。20代後半の頃から有名な歌手のプロデューサーをして、ずっと家族や子供を養ってきました。
渋谷でよく流れるような若者向けの曲、渋い大人向けの曲など、色々な曲に携わっていました」
彼の話には妙な説得力と哀しさがあった。内容は幸福なものなのに、何故か私の感情に嬉しさがなく、胸に何かが空いたような、孤独の感情が私を突き動かしていた。
「けれど、わっ…私は音楽を……作れなくなりました…」
窓に視線を移すと、話に共感するかのように、味気ない大雨が街に降り注いでいた。同時に、私の額に汗が滲み出す。
運転手は、悲劇の主人公のような表情から一転、次第に怒りと屈辱が湧き出したような表情と化す。
「それは…なぜですか?」
「私の娘が、5年前山奥で殺されました」
「まさか西本綾…のことを言っているのか?」
地を貫くような雷が、その言葉を光と轟音で遮る。私は息を呑んだ。段々と鼓動が早まり、強くなっていく。
「娘は何度も刺され、出血多量で亡くなりました。娘はあなたと同じ小説家で、あなたと同じ有名な人気作家でした。そしてあなたはライバルだと思った娘に怒りを感じ、別荘に連れ込み、山奥で殺した。
違いますか?」
あの日、私は確かに彼女に連絡を取り、食事を交わし、彼女を別荘に招待した。そして眠らせて山奥で追いかけ回し、彼女を刺殺した。
私に取って彼女は唯一邪魔で、創作を遮る敵だった。私よりも売れっ子で、地位を固め、賞賛される彼女が醜かった。だから私は彼女を殺した。
「もうあなたに罰を与えるしかありません」
嫌な予感が脳内を駆け巡る。私は急いでスマホに耳を傾けて警察に電話を掛けるも、電話は一向に繋がらず、電話の音だけが車内に響き渡る。
私にはそれが、死の宣告に聞こえた。
「娘は決してあなたを敵視していたわけではなかった。娘はむしろあなたを尊敬していた。家でいつもあなたの話をし、あなたが連絡をくれたときはとても喜んでいた。
あなたはそんな人を奪ったんだ」
私は無我夢中でフロントドアの取手を掴み、押し込むもドアは開かない。
「頼むから出してくれよ!確かに俺は娘さんを殺した!自首するから勘弁してくれよ!だから殺さないでくれ」
私の必死に願望に、運転手は冷酷な声で私に言葉をつき放った。
「自首?自首しても娘は戻ってこない。彼女は死の宣告も受けるわけでもなく、あなたに何度も何度も刺されて、殺されたんだ。
今日まで五年間、私はタクシー運転手として、ネットの目撃情報を頼りに、必死にあなたを探し続けた」
すると、火の匂いが運転手の方から鼻を突く。私は咄嗟に窓を開けて脱出しようと、懸命に窓を叩くも、窓は開かない。
段々と火が体につき、皮膚に刺激する。必死に窓を叩くと、外の景色に私が殺害した女が、ワンピース姿で立っていた。
「父さん、今いくからな…」
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