死後の世界はある?ない?
>>177
僕がいつ死後の世界があると命を粗末にすると言いました?死後の世界があり、そこに行けるか行かないかはあなたの行い次第だというのが宗教です。だから人は道理に従い、命に感謝をしながら正しく生きるのです。宗教において、命を粗末にする人は死んでもいいところには行けず、苦しみの世界に行きます。
死後の世界がないならこの世でいくら頑張ろうと死んだら何もかもなくなる。無駄じゃないかという人が出てくるのが自然な流れです。どれだけ頑張っても死んだら自分にとっていいことは何もない。なら生きてる意味がどこにあると考える人が出てくるでしょう。もちろんそういう状況でも頑張れるすごい人もいるでしょうが、多くの人は自分の利益にならないことはできればしないと考える人が多いでしょう。つまり命を大切にしようとしまいと一緒だという結論に至り、世の中の風紀は乱れるだけです。死後の世界はこの世で頑張るモチベーションでもあります。
>>178
でも残念ながら宗教の教えには根拠がまるでないんだから信じられないね。そんなものをモウティヴェイションにはできないね。
>>175
あなたは「死後の世界がないとみもふたもない」→「だから死後の世界はあるんだ」って考えるわけでしょう?
願望することが真理であると信じられる人はいいね。
でもあなたは信じるということばの真の意味においては死後の世界を信じていないでしょう?
それはあなたが書いた文章からはっきりわかるよ。
>>181
どこの箇所からそう思いました?
僕は死後の世界がないと思う人には死後の世界は無いと思います。でもあると思う人は死後の世界に行けると思います。
>>182
死後の世界を信じても死後の世界には行けません。
宝くじに当たると信じても当たらないのと同じです。
だって行きたいと思わないなら行かなくていいでしょ。行きたい人は誰でも行けるよ。それでいいじゃん。
>>197
199に書きました。
こんどはあなたが論理的に死後の世界の存在の論拠を説明する番です。
「論理的に」ですよ。
簡単に言えば,
「死後の世界の存在」が前提としている自我意識(「私」というアイデンディティ)は脳に化学的な状態として保存されているその人の全経験に関する記憶に基づいているが,生物的死により脳が物理的に消滅すればその情報を保存する媒体もなくなる。HDを物理破壊すれば情報が消えるのと同じである。現に脳幹が生きていても大脳皮質が不可逆的に機能を停止している人間には自我意識がないので世界を認識することはできない。
自己のアイデンティティ情報の保存をつかさどる非物質的な媒体の存在が立証されない限り,何らかの意味での「死後の世界」がかりにあったとしても,そこで自我意識の連続性を担保するものがないのだから,認識論的には死後の世界は存在しないのと同値である。
つまり,「存在する」派の論者は,死後の世界の議論以前に,自己のアイデンティティ情報がいかにして保存されるのかを説明する義務がある。
それができてはじめて死後の世界そのものの存在可能性や属性の議論ができるようになる。
>>199
宗教とは人知を超えた力を信じるもの。生物学の理論だけで証明したことにはならない。宗教学的な観点からも話をしていただきたい。
>>199
宗教では脳に保存された情報は「魂」と呼ばれるものに持ち越されてそれが死後の世界に行くと考えます。
>>204
「魂」というつごうのいい概念を想定するだけでは説明にならない。
脳にあった情報がどのように持ち越されるのかを説明できなければそのような主張はここでは意味を持たない。
宗教を信じるのは勝手だけれど。
>>210
そんなこと人間のちっぽけな頭ではわからん。
全て科学で説明がつくと思い込むのもどうかと思う。まだそう言った宗教的観念を完全に否定したものもないのだから。
>>218
人間の知の集大成?
宗教はそれを凌駕する力を信じるものです。
人間に対して驕り高ぶるなと教えるのが宗教です。
>>218
宗教だって人間が長きにわたり研究してきたものです。現代人は傲慢になりすぎ。自分たちが全て、現在あるものが全てと言って、自分たちが確認できないものや、過去の人が積み上げてきたものを科学という強い武器(科学ももちろん歴史が積み上げた素晴らしいものだが)を振りかざしてそれに合わないものを全て排除しようとする。
>>222
宗教は大昔の経典の研究をしてスコラ哲学みたいに細かい理屈をつけくわえてきただけで、根本的な教えは変わってないよね。科学のように実験観察による仮説のチェックを積み重ねてきたのとは次元が違う。
>>223
だって根本理論があってこその宗教なんだから後の人の都合で根本理論をコロコロ変えては困る。
それに実験で言うけど何をどう確かめるの?
宗教は教えのもとに生きている人が生きていく営みだよ。
科学とは性質が違うんだから次元が違うも何もないでしょ。
仏教の観点から答えます。死後の世界とは特別なところではなく、人の心の中にある。心の平安を得たときそれは極楽。
もう何も気にしない、自然に身を任せようと思えたとき、人は生きながらにして涅槃の世界に行ける。死ぬと全て自然に身を任せ、執着も何も無くなるから即ちそれは涅槃の境地に達したと言える。だから科学者のいう「死んだら何もない」は仏教的にいうと正しいのかもしれないですね。
実はお釈迦様はもともと死後の世界という具体的なことについては何も説いていません。万人共通の死後の世界などという理想郷はないと考えたのでしょう。
死後の世界と一口に言っても雲の上の楽しい世界を思い描く人もいるし、ただただ無の世界を思い描く人もいます。
何もないと思う人には何もない世界=死後の世界となります。だからいわゆる世間一般の死んだ後の幸せなパラダイスはないのかもしれないけど、死んだら消えて宇宙の塵になるのだとすれば宇宙を死後の世界と言えます。
死んだら何もないのだ というのも死後の世界観の一つです。
なので死後の世界はあります。ただそれがどのようなものかはわかりません。
>>205
ただの詭弁。
心の中にあるものはその心の持ち主が消えたらいっしょに消えます。
「死んだら消えて宇宙の塵になるのだとすれば宇宙を死後の世界と言えます。」
それって人が死んだ後も動き続けるこの現世を「死後の世界」というのと同じ論法。その意味なら議論するまでもなく死後の世界はある。
でもそういう話じゃないと思うが。
この世界,この宇宙と別の世界の話だと思う。
>>211
ある可能性があるというだけ。絶対的に証明されたものしか信じないならそれはもはや宗教ではなくなってしまう。人知を超えた境地に人は惹かれる。
>>215
僕はないという可能性だって否定しようとは思わない。ただ「あったらいいな」というのが宗教なんだからそれを信じない人にまで押し付けようとはしない。
>>215
宗教を信じていないので,宗教でなくなろうがどうでもいいです。
人知を超えた境地に人は惹かれるのはじゆうですが,惹かれるからといってそれが存在する根拠にはなりません。
仏教は数少ない科学と共存できる宗教です。科学者が死んだら終わりだ!と言ってくれたらむしろ喜ぶ修行者もいるかもしれない。
仏教はとにかくこの世の苦しみから逃れるため現世で出来るだけ苦しみを絶とうという宗教なので(死後に理想郷を目指す宗教では本来ありません。後世になると浄土などの理想の境地を説く宗派が現れますが)死んだら終わりなのだとしたらもう苦しみに満ちたこの世から解放されるということで仏教の目的と合致してしまうのですw
>>213
仏教はただ闇雲に死後の世界を信じる宗教ではないと言いたかっただけ。
宗教は全て死後の世界にすがるばかりだと思われては困るから。
>>217
要するにあなたは仏教的考えで,死後の世界の存在を肯定していないんですね。
じゃあ投票と矛盾してるよ。
>>219
別に積極的に否定する立場ではないし、死後の世界があると言う望みも明確に否定されていないので信じるか信じないかで言ったら信じようと思ったまでです。
仏教は死後の世界を肯定しないのではなく、ノーコメントというほうが正しいですね。僕の言い方に語弊があったかもしれません。
お釈迦さまに死後の世界について聞いても、「知るか。そんなことより今できることに集中しろ!」と一喝されるのがオチだと言うことです。
>>207
後世になると浄土などの理想の境地を説く宗派が現れますが
そういうのはもはや仏教ではないですね。
あと「なんみょうほう・・・」って何万回もとなえれば願いがかなうとかいうやつらも仏教でもなんでもない。
>>231
お釈迦さまは対機説法と呼ばれることをしています。同じ涅槃の境地に達するにしてもその人に合わせて違う方法を説くのです。人によって適性は全く異なりますから。だから一つの絶対的な教えというものは仏教には存在しません。一見全く違うようなことをしていても目指すところは皆同じです。

