小説 紅影①
核の炎が世界中を焼いた日から、どれだけの年月が経ったのか。
記憶は、死んだ。
かろうじて荒野を生き残った者も、息絶えた。
そして今は、その核戦争を誰も知らない。
風が、吹き荒れている。
乾いた土を巻き上げ、草を逆立てる。
ザァ……ザァ……ザァ……。湿った土を踏みしめる、人の足音。
「ここが……」
若い男の声だった。
まだ十代後半ほどに見える。だがその瞳は、年齢に似合わないほど静かで、どこか冷えた光を帯びている。
彼は懐から一枚の紙を取り出した。
古地図だった。
「先代は随分と目立ちづらいところにアレを隠したんだな」
男は小さく呟いた。
「……いや」
しばらく村を見つめた後、彼は独り言のように続ける。
「目立たないんじゃない。忘れられる場所を選んだのか」
彼はもう一度地図を見た。
中央に村の名前が書かれている。
隣には別の文字が書かれていた。
震えるような筆跡で。
――「決して触れてはならない」
彼は、ふっと笑った。
ーーー
大地は、灰色の荒野に変わっていた。
オオツ村も、今では巨大な廃墟の谷だ。
大きな湖。
折れ曲がった高層ビル。
錆びた鉄骨。
崩れた高速道路。
それらの影の隙間に、人々は小さな村を作って暮らしていた。
文明の残骸に寄生するように。
その村の外れで、15歳の黒髪の少年は薪を割っていた。
カン、と斧が鳴った。
乾いた木は簡単に割れる。湖の湿気を吸っていない薪は軽く、脆い。
ハルは黙ったまま次を振り下ろした。
木で小舟を作り、湖で漁をするのだ。
額から汗が落ちた。
腰には一本の剣が下がっている。
赤黒い刃。
しかし――
鞘がない。布で巻いている。
その剣を見て、通りかかった老害が顔をしかめた。
「まだ持ってるのか、それ」
ハルは無視した。
村では有名だった。
「鞘のない赤い剣」
不吉だと言われている。
だがハルにとっては違った。
父が残した、たった一つの形見だった。
「ハルー!」
酒場の入口から声が飛んだ。
母だった。
「薪割り終わったなら店手伝いなさい!」
「あとちょっとだって!」
ハルはもう一度斧を振り下ろす。
木が割れた。
それを積み上げながら、腰の剣に触れる。
冷たい金属の感触。
それは父のことを思い出させる。
昔、ハルが7歳のとき。
父はこの剣を渡すとき、こう言った。
「いいかハル。この剣は――」
そこまで言って、父は言葉を飲み込んだ。
そして頭を撫でた。
「むやみに抜くな」
それだけだった。
理由は、聞けなかった。
父はその数日後、村の外へ出て――
帰ってこなかった。
「ハル!」
母の声がまた飛ぶ。
「はいはい!」
彼は斧を立てかけ、酒場へ向かった。
---
酒場は、村で唯一の店だった。
といっても、ただの古い木造の建物だ。
過去文明の壊れたビルの資材を集めて作ったらしい。
中には粗末なテーブルが三つ。
カウンター。
酒瓶。
それだけ。
昼間はほとんど客がいない。
夜も、顔馴染みの村人が数人店に入ってくるだけだ。
狩りで狩ってきたうさぎと酒を物々交換する人もいる。
ハルはカウンターに入った。
「遅い」
母が腕を組む。
「薪割ってたんだよ」
「言い訳だね」
そう言いながらも、水の入ったコップを渡してくる。
「外暑いでしょ」
彼は一気に飲んだ。
母はハルの腰を見る。
そして眉をひそめた。
「またそれ持ってるの」
「当たり前」
「捨てなさいって言ってるでしょ」
「父さんの形見だよ」
母は溜め息をついた。
「……あの人も変な物ばっかり拾ってくる人だったわね」
「拾ったんじゃないよ」
「じゃあ何よ?」
彼は答えなかった。
わからないと言った方が正解かもしれない。
ただ単に拾ってきただけじゃないだろ、と思っただけだ。
母は少し困った顔をしてから言った。
「まあいいわ、でもその剣、村の人たち怖がってるのよ」
「そんなの分かってる」
「そのうち問題になるかも」
ハルは肩をすくめた。
「なら俺が村出るよ」
母が驚いた顔をした。
「そんな簡単に言うことじゃない。外は、危ないのよ」
「分かってる」
「分かってない」
母は少しだけ笑った。
「でもね」
「多分あんたはいつか出ていく」
彼は顔をしかめる。
「なんで」
「あの人にそっくりだから」
ハルは黙った。
---
その時、酒場の扉が乱暴に開いた。
「おーいハル!」
入ってきたのはカルだった。
村で一番元気な少年。
15歳。ハルと同い年だ。
「俺はやったぞ、ハル!」
ハルはきょとんとして尋ねた。
「何を…」
「京都の職人の下で働けることになったんだ!やっと、村を出られる!」
カルは興奮そうに言った。
「良かったな、カル」
ハルがそう言うと、カルは軽く息を吐いた。
「お前もここを出ようぜ。こんなところにいたんじゃ、なんのために生まれてきたんかわからねぇだろ」
「こら、変なこと言わない!」
母が腕を組んで言った。
カルは、はいはいといい、軽く笑った。
「薪割り終わったか?」
「終わった」
「じゃあ手伝え」
カルは木の枝をテーブルに置いた。
「これ切ってみろよ」
「は?」
「その剣で」
ハルはすぐ首を振る。
「無理」
「なんで」
「父さんが抜くなって言った」
カルは笑った。
「そんなわけあるかよ。剣ってのは使うためのもんだろ」
ハルは剣に触れた。
確かに、一度も抜いたことはない。
少しだけ――
気になった。
だがその瞬間。
母がカルの頭を叩いた。
「バカなこと言わない!」
カルが肩をすくめる。
「冗談だよ」
その時だった。
酒場の扉が、ゆっくり開いた。
ギィ……
外から男が入ってきた。
黒い外套。
隊服のような。
長い旅をしてきたような姿。
見たことのない顔だった。
だが若いことは分かった。黒髪の青年である。
そして、イケメンだった。
酒場の空気が少しだけ変わる。
外からの客だ。
男は店の中を見回し、静かに言った。
「水、くれないか」
母が答える。
「水は無料よ」
男は席に座った。
ハルがコップを出す。
男は一気に飲んだ。
空になった。
「……もう一杯」
ハルはまた水を入れる。
それも一気に飲まれる。
「もう一杯」
三杯目。
四杯目。
五杯目。
六杯目。
さすがにハルは顔をしかめた。
「金ぐらい払ってくださいよ。この村は貧乏なんだから」
男の手が止まる。
そしてゆっくり顔を上げた。
その目が、ハルの腰を見る。
赤い刃。
鞘のない剣。
男の表情が凍った。
「……おい」
低い声だった。
「その剣はなんだ?」
ハルは少し警戒しながら答える。
「父の形見だけど」
男は椅子から半分立ち上がった。
明らかに様子がおかしい。
「どこで手に入れた」
「だから形見だっ――」
男の視線は剣から離れない。
「……使ったことは?」
ハルは首を振る。
「ないけど」
男は深く息を吐いた。
そして椅子に座り直す。
「いいか」
その声は、さっきよりずっと真剣だった。
「絶対に使うな。そして可能なら…」
ハルは眉をひそめる。
「捨てろ」
「なんで」
男は答えない。
ただ外を見た。
店の中に、妙な沈黙が落ちた。
カルが小さく呟く。
「……誰だよあんた」
男は短く答えた。
「ラカール」
そして、もう一言。
「ラカール・ビョウカンだ」
その時、遠くで犬が吠えた。
「野良犬が。うるせぇな」
カルがそう言った。
ラカールは外を見る。
遠くで、何かが歩く音。
金属が擦れる音。
夜の風が、廃墟の谷を吹き抜けた。
まるで何かの前触れのように。
「来る…」
作者の一言
読んでくれて嬉しいです
英語の試験勉強でわからなかった単語
vociferous…(人が)やかましい

