アニメ『どろろ』はおもしろい?つまらない?
>>1330
それ以前に「どろろ」が人の名前だったってことの方が驚きだったんで、百鬼丸の名前がどろろじゃなかったってことは、あまり不思議に思わなかった。
私の場合は、原作が妖怪ものだということを知っていたから、怪奇ものにつきものの「ヒュー ドロドロドロ…」の効果音をまず連想してしまったので。
それに百鬼丸の名前は、あまりにも百鬼丸にぴったりだから、百鬼丸の名前が「どろろ」だったとしたら、その方がびっくりだな。
原作者の手塚先生曰く、「どろろ」の名前は「泥棒」からきていて、「どろろ」のキャラをとても気に入っているからタイトルを「どろろ」にしたんだそうだけど、ジャンルが妖怪ものだから「おどろおどろしい」とか、人間の情念を扱った物語だから「ドロドロ」とか、どろろ自身が泥まみれだから「泥んこ」とか、いろんな意味合いをタイトルに込めたんじゃないか、などと推測している。
>>1331
「どろろ」の名前が「泥棒」からきているのなら、全身が欠損している百鬼丸なんかは、思いっきり泥棒の被害にあっているよね。
百鬼丸もどろろも、みおたちも、奪われる側の人間で、奪った側は泥棒だから、タイトルが「どろろ」になったのかもね。
>>1320
新作は画風や声より「人物の内面描写・統合性」に難を感じる。
旧アニメの画風は、どろろはともかく百鬼丸は劇画調で手塚絵という感じは全くと言って良いほどない。両親に捨てられた過去を思うと原作が冷たかったわけではないが、旧アニメでは年齢が上がった分、母への思いやりがあり、縫の方その人の行動にも、より母親らしい愛情が感じられた。
原作で寿海が百鬼丸に旅立つことを促した切っ掛けが、百鬼丸がいることで寿海宅に妖怪が寄り付き、ともに暮らすことが困難になったことにあったのに対し、旧アニメでは百鬼丸が呪われた運命に打ち勝つべく体を取り戻す旅に出ることを、父親らしい厳しくも温かな大きな愛情で送り出す様子が、原作よりも分かりやすく、より自然に描かれていた。
旧作アニメの景光は多宝丸を溺愛していたけれど、自らが魔神に生贄にささげた百鬼丸のことを忘れ去ることは出来ず、ことあるごとに百鬼丸をカタワだと貶める多宝丸を叱り(景光には百鬼丸の体が欠損しているのは百鬼丸の所為ではなく、自身の野望の所為だという自覚があり、無視することはできなかった)、また兄弟が争うことを嫌っていた。鬼のような男でありながら、百鬼丸と決闘したことで多宝丸が命を落とすまでは、百鬼丸に対して父性が残っていた。それらは原作と同じだが、旧作アニメの景光は最期には乱心し妖怪と化して縫の方を殺め、そのまま百鬼丸と刃を交える。葛藤や心情は原作より分かりやすく、流れも自然に描かれていた。
旧作アニメではキャラクターそれぞれのアイデンティティがしっかり描かれていて、人物像にブレがなかった。葛藤はあっても、それぞれの志が感じられた。
けれども、新作アニメは人物像のブレが大き過ぎて、登場人物が自分の意志で物語を動かしているのではなく、シナリオに沿って無理やりセリフを言わされているような不自然さがあった。
ざっくりと「あらすじ」だけを追うならば、新作アニメの狙いは分かるし、「あらすじ自体ば破綻していない」と思う。けれども新作アニメの登場人物の言動には一貫性が感じられずバラバラなためアイデンティティが感じられない。物語の前半と後半ではメインキャラが皆、別人過ぎる。成長して別人になったのなら良いのだが、そうではなくて、シナリオの都合でチグハグな行動を取っていたみたいにみえた。尺の使い方と内面描写に難を感じた。
誰が誰を好きで どの作品を好きでも、その人の勝手だけど琵琶法師は原作の方が断然カッコイイよ。
原作では琵琶法師は名乗ることは一度もなかったけれど、寿海と同様に百鬼丸を生かすべく現れた人物で、紛れもなく百鬼丸の師だった。
百鬼丸は、アニメのように偶然にみおたちのもとに辿り着いたのではなかった。琵琶法師が自らみおたちに引き合わせるべく百鬼丸を連れて行った。その道中のシーンと別れ際に琵琶法師が百鬼丸に諭す言葉がとても感動的だった。
でも、このシーンは現在では身体障○者に対する差別になるからと言葉狩りの憂き目にあい、セリフが改変されてしまったので心に迫る感じがうんと薄らいでしまった。その為、新版を読んでも心が揺すぶられる人は少ないのではと思えるし、原作ファンがこのシーンを重視する気持ちも分かり難いと思う。それがとても残念。
手塚先生は差別を助長させようと『どろろ』を描いたのでも、あのシーンを描いたのでもなくて、差別することの愚かさと、差別される側の悲哀を作品を通して伝えようとしていたのに、セリフを変えてしまっては本末転倒になってしまう。言葉で悲哀を薄めて大したことではないようにしてしまう方がよほど罪深いことなのに。
話を戻すけれど、すっかり自信を失い将来を嘆く百鬼丸に、生きることの意味と命の尊さを自分の心と体で感じ取って欲しい、自分の中の可能性を自分の力で育んで欲しいと、琵琶法師は百鬼丸を戦災孤児のみおたちと交流させることで、人間とは何なのか、生きるとは何なのかを教えたんだ。
貧しくて体が欠損していてどんなに汚れていても支えあいながら生き抜く子供たちの姿を通して、困難にもめげずに生きようと努力することの美しさ、人々が協力し合うことの美しさ、希望とは努力あってこそのことなんだと、琵琶法師は言葉だけではなく、それ以外の方法で、正に「百聞は一見に如かず」で教えた。
だけど、アニメの琵琶法師は偶然出会ったことになっているので、その分、みおたちに対する情が薄いのか、これから戦があることを知っているにも拘らず、大人が側にいてあげなくてはならないときに、あの危険な鬼神が棲みついている土地がまるで希望の地であるかのように夢を持たせて、百鬼丸は片足を失いまだ傷も癒えていないのに去って行ってしまった。だからカッコイイとは思えず、口ばっかりの、死神や悪魔的なおっさんだな、と思う。
>>1338
1338だけど「身体障○者」って「害」の字をちゃんと打ち込んだのに、このサイトも言葉狩りがあるんだね…。
「害」の字が〇に変換されているよ。
周りに害を振りまく人という意味で害の文字があてられているのではなくて、「困難な場面に出会うことが多い」ということを表現するためにあてられた文字なのにな。
>>1329
鬼滅は出だしは間延びした感があったり、セリフで状況を説明し過ぎな感があったり、悲惨な背景のわりに炭治郎がやたらとハイテンションになって騒いだり、「はい、ここ感動ポイントですよー」という演出が入ったりで合わなく思えて視聴を早々に止めていたけれど、3話のラストが気になって、そのまま11話まで頑張って(?)観たら、結構面白いじゃないか!となった。
原作未読の自分から観ても、(特に後半からは)アニメのスタッフがキャラクターの個性を大事にして描いているんだなというのが伝わってきた。
兎にも角にも、鬼滅の場合は作り手の熱意が感じられるし、少なくともアニメ全話通して各々のキャラクターにブレはなかったし、意志がはっきりしているのが良かった。
でも、このアニメどろろの登場人物は、ただ流されて時間が過ぎるのを待っているような人ばっかりだったし、干渉はしてもコミュニケーションを取ろうとする人がほとんどいない。
このアニメでは、百鬼丸が生き延びたのも、生まれつき持っていた第六感と鬼神に対する憎悪によるものが大きいという印象が強かったし、鬼神を倒すときは殆どが個人プレーだったんで、話の展開も単調で淡々としていて、後半は失速感が半端なかった。
アニメどろろは生まれつきの才能がほとんど全てを決める、みたいな仕上がりになってたんで、私はアニメ鬼滅の方が面白かったな。
>>1341
いやいや、この新作アニメどろろの元ネタは漫画だし、その原作漫画が発表された時期は1967年。昭和の時代の漫画が平成に発表された鬼滅の刃のパクリになり得るはずがないんだよ。
安易に決めつけず、せめてこのアニメのタイトルの三文字だけでも打ち込んで検索してみてよ。Wikipediaにもちゃんと書いてあるから。ごくたまーに、『どろろ』はジブリのパクリだとか、なんちゃらというゲームのパクリだいう意見を見掛けるけど、その時代はジブリも、そのゲームをやるゲーム機の存在自体がないから、全くの誤解。
原作者の手塚治虫は昭和一桁生まれの第二次世界大戦を経験した人物で、ギリギリ出兵こそは免れたものの、爆撃機が頭上を飛び交い、焼夷弾が落とされる、そんな少年時代を過ごしたんだ。
戦争が本格的になる「比較的裕福で自由があった時代」と、いつ自分も徴兵されるか分からない、徴兵されなくとも命を落とすかもしれないという「死と隣り合わせの時代」と、「終戦の喜びと戦後の高度経済」という流れの中を生き抜いて、「一瞬にして価値観がひっくり返るような時代の変遷を生身で体験し、全てを投入して描いた漫画が『どろろ』なんだ」よ。
だから『どろろ』の元ネタは、突き詰めて言えば原作者手塚治虫の人生そのものと言っても良いと思うな。
>>1341
うーむ、それって『ジャングル大帝』(記念すべき日本のカラーアニメ作品第一号という、あまりにも昔の作品なので知らんかな?)をみて、『ライオンキング』のパクリじゃん!っ言ってるようなものだよ。
鬼滅のアンチでも熱狂的なファンでもない、中立的な立場からの意見だけれど・・・
“決めつけの刃”って揶揄してる書き込みをちらほら見掛けることがあるけど、原作の有無やその発表時期をちゃんと調べないで、「ただ何となく似ていると感じただけでパクリだ!」って書いちゃう人がいるから、“決めつけの刃”って言われちゃうんだと思うよ。これは、その典型例になっちゃってると思うな。
それにしても、どこが似てるの?
どろろに出てくる鬼や妖怪って、新旧のアニメも原作も炎に焼かれて消滅することはあっても、朝日で消滅したりしないし、吸血鬼に襲われた人が感染してしまったみたいに自分も鬼になるってのはなかったけどな。妖怪に憑りつかれるというのはあったけれど、体を乗っ取られていなければ妖怪を倒せば元の人間に戻れていたし、戦馬のミドロ号の場合は傷が深くてもう死ぬよりなく自らを妖怪に捧げてしまったので妖馬になってしまったけどね…どの辺がパクリなんだか分からないよ。
アニメでは、賽の目の三郎太が自分を鬼神に喰わせて同化させてたけど、でもこれは永井豪が70年代初頭に発表した漫画『デビルマン』みたいだった。デビルマンに出てくるデーモンは、喰った相手を取り込んで同化させることが出来るし、喰われた当事者の意識が残っているパターンもあったんで。
それでもって、アニメでは多宝丸たちが百鬼丸の目や手を生やすシーンがあったけど、これは90年代後半に発表された初期のヴァンゲリオンのテレビシリーズと雰囲気が近かった。エヴァンゲリオンではシンジの乗ってる初号機が腕がもげたとき、初号機がそのまま使徒の腕をもいですげ替えをするシーンがあるし、アニメどろろと鬼滅よりも前に発表された八木教広のクレイモアでも、腕のすげ替えをするシーンがあった。
でも別に、どれもこれも、いちいち誰それのパクリだとか思わなかったけどな。いろいろと参考にはしてるのかもしれないけどね。鬼や妖怪や悪魔って人間からみたら、みんなバケモノだし、人にはできないことが出来るから人外なんだしね。それをパクリだって言ったらキリがないよ。
>>1341
原作漫画『どろろ』を『鬼滅の刃』のパクリと言ってるのなら、「いやいやいや!!!!んなわけない!!!!!」ってなるけど…
でも、原作とアニメはストーリーがかなり別物だから…純粋に「今作のアニメ どろろ」の、殊にキャッチフレーズになっていた「鬼か人か」を指してパクリだと言ってるのならば、もしかしたら、制作時期が被っていた今作に限っては『鬼滅の刃』の影響を少なからず受けていたかもしれないね。
「鬼か人か」をテーマとして描いた作品としてみたとき、原作漫画『どろろ』は『鬼滅の刃』とは全く似ていないし、発表時期もずっと前なのでパクリも何も影響の受けようがないんだけど、旧作アニメどろろでの最期が印象的だった醍醐景光に『鬼滅の刃』のテイストを加えたら、今作の景光みたいな人になりそうではある…。といっても、今作の景光は鬼神に魂を売ったわりに気迫が感じられず(気迫が感じられたのは第一話だけ)、あるのは妄執のみという感じだったけども。
今作のアニメどろろでは、「人か鬼か」については寿海や琵琶丸の説法めいたセリフに頼り過ぎだった点が物足りなかったなぁ。
テーマを「人か鬼か」にするのなら百鬼丸や景光以外のキャラ、例えば今作では完全にモブ扱いになっていた田之介や賽の目の三郎太や不知火の狂気よりも、彼らに残された「人」の部分にもっとスポットを当てるべきだったと思う。当事者の鬼の部分よりも、今なお心の奥底に残っている人の部分の表現が今作は不十分な為、この人たちが単なる当て馬になってしまい魅力が無くなってしまった分、ストーリーが浅くなってしまったな、と。(ちなみに今作には「叶うなら、遠くまで」っていうキャッチフレーズもあったけど、それも相俟って雰囲気重視みたいになって、後半は特にテーマがブレてしまったんじゃなかろうか…。)
「鬼か人か」に話を戻すけれど、目標に向かって懸命に歩んでいた人が鬼に変化する背景や心情を切々と描き、そのもう一方では鬼になっても人としての感情を消さずに人に戻りたいと願った鬼の有様を描くなど、『鬼滅の刃』は「鬼か人か」というテーマを丁寧に描いていたと思うな。
だから、1341コメさんには「鬼か人か」というテーマを扱った『鬼滅の刃』が真に迫っていて深く心を揺さぶられたので、このアニメどろろは『鬼滅の刃』のパクリみたいに思えたっていうのなら、分かる気がする。
とちぎテレビの放送でハマりました!大好きです!
百鬼丸に惚れました。
ブルーレイ買っちゃおうか迷ってます。どろろも可愛くて大好きです。
>>1329
鬼滅の刃が嫌いな人には、このアニメは面白いんだろうけど、どろろの原作が好きな私には改変が多過ぎて、原作のキャラの内面的な魅力やストーリーの展開の良さが大きく失われてしまった、このアニメがどうにも好きになれなかった。
だから寧ろ、原作愛が感じられる鬼滅のアニメスタッフにどろろを作って欲しかったぐらいだ。どろろの監督前期のОPとEDと同じぐらい、アニメ本編にも原作愛を注いで欲しかったと思う。
どろろのアニメは前期はともかく後期はストーリーが別物過ぎたし、絵もどんどん雑になってくし、キャラクターに一貫性がないから言動も破綻してるし、アニメとしての出来が良かったとは思えない。
>>1348
全部アニメのことだけど、私は百鬼丸の身勝手さと、どろろが口ばっかで煮え切らない態度ばっかなところと、寿海がいつまでも過去に囚われてウジウジしてるところと、縫の方がプッツンなところが嫌い!!! 所詮、アニメで架空の人たちなんだけど、本当にこんな人が身近にいたらイラっとすると思うね!
確かに手塚絵の方は不気味さ、アクション共にあって好き。しかし、現代の子達にとっては少し可愛すぎるかもしれない。そこを考慮して作ったんだとしたらとても良作。原作にもある程度忠実であり、絵も萌えすぎない。
>>178
めちゃくちゃじゃねーし話さないと展開に繋がらないからだろ。24話の中でテレパシーとか言ってる場合じゃないし
>>1362
47コメ本人じゃないけど、百鬼丸の眉毛が細いことよりも眉毛が短いのが剃り落したみたいにみえて、昔のヤンキー漫画っぽくって気になったな。
>>1361
39コメさんじゃないけど、同じく原作好きの立場から意見を言わせてもらうよ。
“原作好きならアニメも好きになって欲しい”というのならば願望を言っているだけだから分かるけど、なんでわざわざ、“原作好きならアニメも好きになれるだろ 「普通は。」”って、「普通」を強調したの??
ここで「普通」を使う意図は何?
原作好きの人はアニメ化作品が面白く感じられなければ異常とでも言いたいの?
アニメ化されたことで、キャラクターの内面が別人になってしまったり、好きなシーンのテーマや印象が別物にすり替わってしまったり、名シーンがことごとくカットされてしまったことで、原作好きがアニメ化作品にガッカリしてしまうことは「普通」にあることだと思うね。
原作好きが実写映画化された作品を観てイメージが違っていてガッカリしたりするのは奇妙でも何でもなく「普通」にあることだし、それはアニメ化作品にも当て嵌まる。
感性は人それぞれだから、もし皆が皆、同じ様に感じるなら、それこそ「普通」ではないことになってしまうし、人からの受け売りや人に同意するばかりで、自分では何も感じず、自分で考えることをせずに作品を観ていたことになるだろうね。
ドラマや映画の1作目のファンで続編を観てガッカリした経験がある人はそこらじゅうに「普通」にいるよ。
だけど、原作付きアニメに限っては、それは当て嵌まらず普通ではないと言うの? それこそ、普通じゃないよね。
1361コメさん限定で言っているのではないけれど、つまらない、面白くないと言うならば、最初から観なければ良いという人はいるけれど、観なければ面白いか面白くないか、自分に合うか合わないかは分からない。
服だって靴だって試着してみなければ、本当に自分に合うかどうかは分からない。本も映画も音楽も、先ずは触れて見なければ感動できるかどうかは分からない。
「原作ファンがアニメや映画化された作品を観るときは、作品に期待もしていて、応援したいという気持ちも普通に持っているよ。」
そう思って観続けても、その作品が自分の感性に訴えるものがなく、魅力がなければ、つまらないと思ってしまうことは仕方のないことだ。
ここは、おもしろい、つまらないの両方の意見を書くサイトだから、39コメさんが「アニメを好きになれない理由を書くのは普通のこと」だと思うね。

