アニメ『どろろ』はおもしろい?つまらない?
>>1197
私も途中からどろろちゃんであって違う子だなぁと感じていました。
原作のどろろは逆に皆に喝入れてたんか切る子だと思うんです。
そんな場合いか皆クヨクヨすんな!生きろ!!って。
大物になるのも考えものですね。周りが誰も止められないし、意見を言えない・聞かない。
絵柄は現代的でも初めは期待してたんですよね。
>>1197
アドバイス、諭してくれるキャラが欲しかった。
原作はどろろだったり寿海、琵琶法師だった。
例えば原作のどろろちゃんとか十二国記の楽俊とか。
楽俊はアドバイスや諭すのが的確で一家に一人は欲しい(笑)
ショウケイに出会って諭す場面はいつ見ても(読んでも)考えさせられるし、まるで自分の事を言われているようで心に刺さるしキツいけど大好きなキャラです。
>>1201
長文になりますが、失礼します。
個人的には、こちらの琵琶丸と寿海のアドバイスは、アドバイスしている側に迷いがある感じがしたし、百鬼丸本人が自分でよく考えて答を出せるように導こうとしているようには感じられず「こうするしかない」と言ってしまっているように聞こえたので、モヤモヤしていました。
原作のどろろと十二国記の楽俊の言葉には、百鬼丸と陽子、それぞれに対して我が事のように親身に思う温かさがあるので、鼻の奥が思わずツーンと痛くなるような感動がありました。
今作の彼らの場合はアドバイスというには、まだ距離があって突き放している感じがしたので、冷たさを感じてしまいました。(それは今作が百鬼丸が鬼神になる物語だから、進行上そうしたのだろうけれど、進行ありきじゃなくて人ありきで描かないと、どうしてもキャラクターたちの人間味が薄れてしまい、物語の魅力も薄れてしまうと思う。この辺りが私には合わなかった。)
ショウケイ、あの元姫は楽俊たちに諭されてからは目覚めて、お飾りで世の中に無関心な人形から自分で考え行動を起こす大人に変わって行く姿が感動的でした。
ショウケイは私にとっても反面教師的存在で、「まるで自分の事を言われているようで」という感覚、良く分かります。世の中の現状を知らないから許されるのではなくて、「知ろうとしないことが罪」、あれは的を射ていたと思います。
>>1201
1204の続きです。
今作が、いまひとつ好きになれない理由は、悟る前のショウケイみたいな人が多いから。
終盤で登場した村の青年の一人が、百鬼丸の身の上を知り「その百決丸って奴をまた生贄に差し出せば、この わざわいも治まるんだろう」みたいなことを言うので正直ゾーっとしました。
今作に出てくる人たちってモブも含めて、昔のショウケイみたいに迫害される側を見捨てる人、問題を人に丸投げしている人が多かったので。やっぱりこの辺の感覚が、自分がこれを『どろろ』と思えない大きな理由なんだよなと思います。他には幾らダークファンタジーだからって、これまで様々な戦災や自然災害を乗り越えて来た日本が舞台の物語とは思えない、という気持ちもあります。
原作に出ていた村人たちって唯のモブではなくて、お米を含めてみんなで知恵を出し合って、百鬼丸とどろろに協力して妖怪を退治していました。最後に百鬼丸の体の秘密を知ってしまうと迫害す人たちは多かったけれど、何も知らない間は協力的な人たちは多かった。敵対していたあの鯖目でさえも最後には改心し百鬼丸の理解者になっていたし、村人の中にはお米みたいな子もいたので、何れは百鬼丸の理解者は増えていくのではないかという希望も、物語の中では描かれていた。そしてラストは村人たちが起こす実質一揆。
でも、こちらにはそれらがあまり感じられない。人々が協力し合う姿が描かれず百鬼丸が一強で、ほとんど全てを解決してしまう。原作ではモブの人たちでさえ生き生きしていたし活躍していたけれど、本当にこちらでは唯のモブ。この人たちはもう制止画でも良いんじゃないかというほどモブ。この辺が物足りなくて…もっと登場人物たちが生き生きした、生身の人間のようば物語を欲していた私には、今作は物足りなかったですね。『どろろ』に拘らなくても今作は全体的に冷えている感じがした。それが率直な感想であり、つまらない派のままになってしまった大きな要因ですね。
>>1205
話は逸れますが、感銘を受けた十二国記の言葉。
今作のキャラ達に聞かせたい台詞ばかりです。
ショウケイに安宿に泊まりたくないと聞いて楽俊が諭す場面
「…絹の着物を着てい宿に入るのが、そんなに恥ずかしいもんかなぁ」
「自分ががんばってもてに入らないものを、なんのがんばりもなしに手に入れてる連中が持ってりゃ恨めしい。ーそんなの当たり前のことだ。」
「なんの努力もなしに与えられたものは、実はその値打ち分のことをあんたに要求してるもんだ。」
「責任を果たさずに手に入るものなんか、ねえんだよ。あったとしたら、それは何か間違ってる。間違ったことを、盾にとっても、誰も認めちゃくれねえんだ」
陽子 ー「仮にも一国の主が国民の辛苦も顧みず、そんな愚かなことのために犯してはならない罪を犯したのか」
人は愚かだ。苦しければ、なお、愚かになる。
延王・尚隆「ひっきょう、王は民を搾取し、殺すものだ。だから、できるだけ穏便に、最小限を搾取し、殺す。その数が少なければ少ないだけ、賢帝と呼ばれる。だが、決してなくなりはせぬ」
「若、呼ばれるたびに、一緒に託されたものがある。一声ごとに託されて降り積もったものを、俺は連中に返してやれなかった。…もう返す術がない」
「俺は欲張りだからな。百万の民と百万と一の民なら、後者を選ぶ」
是非とも醍醐一族に見習って欲しかった名言です。
長文失礼しました。
>>1194
再度失礼します。1197ですけど、最後の方で >>1191
と再び返信番号を間違って振ってしまいましたがそこは無視してください。本当は としたかったんですが…別に再度番号を振る必要はなかったですね。分かりにくくなってすみません。
>>1198
1197・1198ですけど何故か脱字しましたので再度補足コメです。
○ 本当は >>1194
としたかったんですが別に再度番号をる必要はなかったですね。
…読みづらくなってしまい申し訳ないです。
>>1189
お米が出てこなかったのは、ミオのヒロイン力が薄れてしまうからなのか…。それとも、縫の方のラストシーンが盛り上がらなくなるからでしょうかね。お米はコミュニケーション力にやや問題がある風変わりな子(悪い子ではないけれど言葉のチョイスに問題がある子とか、人見知りな子)として、登場させることは出来たと思います。魅力的なキャラだったのに、もったいなかったですよね…。
あと四化入道、あれも良かった。お米のときも思ったけれど、ラストの寂寥感、無常感。そういう世界感がアニメではいまひとつ上手く描けていなかったと思う。
最近は男性がじめじめ、ナヨナヨする話、多いですよね…。
でも遡ると、石ノ森正太郎先生 描く男性主人公はそんな感じの人物が多かったと思う。個人的に今作は石ノ森テイストが入っている様な気がします。仮面ライダーもも009も悪の組織から誕生して正義側へ、キカイダーは正義と悪の狭間で揺れるという感じなので、そこも今作のテーマ「鬼か人か」に通じるものがある気がします。
寿海も手塚治虫のキャラとしては(おっかちゃんと呼ばれただけあって)、ちょっと乙女っぽいし。
今作では百鬼丸の鬼気迫る感じを出したくて鬼神にしたのかとも思うけど、原作で百鬼丸に鬼気迫る感じがあるのは、真に生を欲しているからであって、本当の鬼とは違うんですけれどね。鬼神になるにしても、誰の目から見てもしっかりとした動機がある、自分を捨てた醍醐夫妻の前だけで良かったのかもしれないです。正式に許可を取った以上は、スタッフが好きに描いて良い訳ですけれども…。
>>1192
石ノ森先生の作品は好きですよ。
サイボーグ009とか一時期はまって読んでました。島村ジョーくん? 009かっこよくて大好きでした。
十二国記の陽子しかりキャラクターが皆魅力的というか人間味溢れてて誰かしら自分と似ている所が共感できたのですが、今作の「どろろ」は誰も…
共感出来ないというかもう好きにすればって。
原作の「どろろ」(手塚作品)は色々感じる・勉強になる教訓的要素があったので残念です。
>>1193
1192です。私も石ノ森先生好きですよ。長編物だと風呂敷を広げすぎて畳めなくなってしまったなと思える話もあるけれど好きな話は一杯あるし、短編や中編も好きな話が多いです。
009のジョーもキカイダーのジローもセンチメンタルなところがあってよく泣くし、男性でありながら少女っぽいところがあったけど、自分が大切にしている正義を貫こう、どんな姿であろうとも自分は人でありたいという意志がありました。アンバランスさを持ちつつもブレまいとするところが人間味があって、それが人物像にも物語にも魅力を与えていた。石ノ森先生は葛藤の見せ方が上手かった。だから登場人物に共感できるし、読み手のこちらも共感できた。
でも今作の方はというと葛藤の見せ方が上手くない。百鬼丸の葛藤(体を取り戻したい気持ち、母と弟を亡くした喪失感)は当事者ではない琵琶丸やどろろが説明してしまっているし、百鬼丸が体を取り戻したいと思う気持ちは、終盤に差し掛かるまでは本能的なものとしてしか描かれていない。そこも私の場合は共感しづらくさせ、物語の幅を狭めてしまう要因になった。
キカイダーに話を戻しますけど、私は今作ではどろろがキカイダー ジローの良心回路ジェミニの役割を担いつつ、百鬼丸が成長していくことになるのかなと思っていたら、そうでもなかった。どろろはジェミニというよりも、どちらかというと暴走を抑える制御装置みたいだった。
登場人物に共感できるか出来ないかというのは、物語の魅力を測る重要な物差しで、基準ですよね。
>今作の「どろろ」は誰も…
私もです…。最初は好意的に見ていたキャラクターたちが段々、壊れていったので。
>>1189
>じめじめ、ナヨナヨする話。主人公チート、主人公最強何でもできるー。
私の場合、どろろを見ていたつもりが途中から東京喰種やエヴァンゲリオンを観ているような気分だった。世界観も人物像も統合性、整合性に欠けていたと思う。最初は妖怪物をベースにした時代物に見えたのに、途中からゴジラ乱入したのかと思えるほど、よく分からない話になった。室町時代を現代の家族問題に絡めて描いたのかな?とも思えたけれど、主人公は旅に出て無罪放免だし、どろろが言うほど悩んでいるようにも見えない。
目を取り戻すということは涙も取り戻すことなのに、涙を一滴も流さない百鬼丸。産声を上げたとき以来、涙を忘れてしまったのか。星飛雄馬ばりに泣けとは言わないけれど、肉親と育ての親を失ったのなら、涙が滲むとか目頭を押さえるとか何か反応があった方が自然で良かったし、旅立つ前に菩提を弔うシーンは絶対あった方が良かったと思う。
今作では百鬼丸をクールに描こうとするあまり、人間性を取り戻す描写が疎かになってしまったことが惜しまれる。…というか、そういうところこそちゃんと描こうよ!と思った。クールというよりこれじゃ唯の幼児だよ。いや、幼児だって肉親を失えば泣くのに。これじゃ都合の悪いことはさっさと忘れたことにする人かズレた人に見えるから、セリフはなくても良いので演出で、映像でそこらは丁寧に描写して欲しかったなぁ。
体を取り戻すということは世界を知り、世の中と関わること、社交性を身につけることでもあるので、旅立ちの前に、もう少し成長した百鬼丸を描いて欲しかったですね…。(ラストではちゃんとした大人になったように描かれていたけど、あのワンシーンがなければ、このまま野放しにしたら何か問題を起こしそうなヤツに見えたんで。)
小学生の時に図書館で好きで読んでたなぁ…懐かしい。
あれ?手とか目とか最初の方で取り返してなかったっけ?とか思いながら最終話まで観たけど、綺麗に終わらせてくれたと思いました。個人的に。
絵柄は最初違和感スゴかったんだけど、慣れたらこれはこれで好きです。
アニメ観て面白いなと思った方は、ぜひ原作も読んでいただきたいですね。
ここ最近では見れる方だった。
どろろの声はミスキャストに分類する。
「普通」と呼べる人物が少ないこの作品において、どろろの演技は感動できるかに直結するキーだったように思う。
内容の濃く深い今作、14歳で感動を生む心の機敏表す演技を求めるのは無茶ではなく無謀に思う(これを否定する俳優、声優がいてほしいが)。
最初のOPも酷かった。
音楽プロデューサー、カッコつけてるだけで中身のない人に歌わせるのはマーケティング上でも逆効果だと分からない人が努めるべき役職ではないと思う。
>>1207
今作がどこがどう、つまらなかったのか書こうとするとネタがあり過ぎて、あっという間にレポートが書けてしまうほどの代物で、それだけ残念に思ったってことだよ。寧ろレポートが書けるほどネタがあるのを、文字数制限に合わせてなんとか縮めた結果とも言える。おもしろく出来るはずの素材が揃った物語を、変な方向に進ませるから面白くなくなったという怒りの現れ。それが長文。
原作以外の他作品と今作を比較するなら、主人公と兄貴分の絆の強さなら「モブサイコ100」の方が断然深くて面白いし、父親が魔物と取引したことで能力が欠損して生まれた少年の成長物語としてならば「王様ランキング」の方が断然面白い。歴史物風のファンタジーということなら、ここでもう既に上がっている「十二国記」の方が断然面白い。
原作と比較しなくても、このアニメは人が人としてあるべき大切なことが上辺でしか描けていないので、私には手放しに面白いとは言えない。面白い試みはあったけど、主人公の成長物語としてみると描写不足でイマイチだった。
『どろろ』は勇気を与えてくれるお話だと思っていたんだけれど、こちらは弱々しく薄情な人、支離滅裂な人が多かったんで、おもしろかったのは序盤だけ・・・
つまんない。例えて言うなら父に疎まれ、ろくな教育も受けず育った男が無知ゆえに騙されてブラック企業に就職し、コミュニケーション下手ゆえ一人で仕事を押しつけられ精神を蝕まれ暴走し、会社に火を掛けて丸焼きにし、母と弟と養父が責任を取って亡くなった。そんなお話。
制作の都合か知らないが意図的に一揆は外しているため、くどいくらいの手塚漫画の社会テーマが薄味。一期OPがただ素晴らしいだけに、個人的に残念。手塚ファンとしては新規に手塚漫画読む人増えたらなあと思います。
>>1217
制作側が一揆のシーンを外したことで原作の持ち味が薄れたことは私も残念に思った。モブシーンを描くと手間が掛かることから尺や予算を考えて敢えて外したのか、一揆を暴力と捉えて外したのか…。何れにしろ物語の中で どろろがしきりと非暴力を訴えていたことからも、一揆はストーリーに盛り込まないことにしたんだと思う。
そこで、どろろと村人たちによる無血革命に持っていこうという流れにしたと思えるが、かといって村人たちも どろろも景光側に交渉するでもなく、実質嵐が去るのを待っていただけのように見えて物足りなかった。その一方で、鬼神化した百鬼丸が醍醐の国を破壊することで鬼神ごと国に根付いていた穢れを祓い、景光たちをも退けた後、人間に戻ったという流れで英雄として描かれているように見えた。手を汚す役目は百鬼丸が一身に引き受け、どろろたちは手を汚さないという図式を感じた。今作の狙いとして、人の上に立つどろろは真に清い存在であらねばならないということなのだろうと。
今作では非武装主義のどろろは村人たちのオーナーになったわけだが、そうすることで特に行動を起こさなかった青年たちを含む村人は、どろろのお宝をお手軽に得るというだけの棚ぼた人間に見えてしまった。原作では、どろろのお宝は心から信用できる人を介して使うようにと、両親からの切実かつ現実的な遺言があったわけだが、果たして、この青年たちは両親が必死で守り抜こうとしていた大切な秘密を明かしてしまうほど信用に足る人物に成り得るのか。
一揆のシーンをなくした分、そこのところは充分な尺を取って絆を深める場面を描いた方が良かったと思う。尺が取れないならば、せめて村の青年には「百鬼丸を再び生贄に」なんてことは言わせない方が良かった。あそこは「なんて惨い。こんなことがあって良いはずはない。これからは俺たちが世直しをするんだ。おまえたちも協力してくれ!」と言ってくれれば良かったと残念に思った。長文失礼しました。
この新作アニメの「百鬼丸」は奪われ過ぎていると思う。
魔神に奪われる体は12か所と原作より減ってはいるものの、一番大切な感情の表出を彼は奪われている様に感じられる、
体を取り戻しても原作のように全身で「うれしい」と表現しない「百鬼丸」
「どろろ」が大切な人になったから、取り戻したいと願った?
どうにもピンとこない。
そして、「親に搾取されていた」ことに彼が気が付き「怒り」を表出すると皆が、
「いい子でいないと魔物になるよ」
と、その怒りの表出を抑える。
彼をそこまで追い込んだ人たちは責任を取らないか、自死に逃避する。
酷くグロテスクな物語である。
既出コメントと被りますが、この話は設定も脚本もおかし過ぎた。(特に中盤以降が!!) アニメを装ったコスプレや劇中劇をしていたのかと思えるほどに登場人物たちの言動が変。景光に至っては全く救いようのないレベルで変で論外。
目の前に死者 陸奥・兵庫がいるにも拘わらず、縫の方に説法することにばかりご執心で村の若衆に任せっ切りで経を一切上げない琵琶法師 琵琶丸に、目の前にいる重傷者 多宝丸の治療よりも共に死ぬことを選ぶ寿海と、国の母だの赤子の百鬼丸を手放さずしっかり胸に抱いておくべきだったといいながら、出産直後、ばんもん、燃え落ちる醍醐の城と三度も百鬼丸を捨て、国も捨てて死んで逝った縫の方。
いったい、この人たちは自分の役割をなんだと思っていたのか、世の中と他者をなんだと思っていたのか。更に言うなら、制作側は視聴者をなんだと思っていたのか。真剣に観ないで雰囲気で流して観ようとしても無理。違和感があり過ぎ。
そして、城がボウボウに燃えているのに城内に向かったままの縫の方をずっと放置していたどろろと琵琶丸。・・・おかしいでしょう。二人とも助けに行くのが遅過ぎ。いつも都合良くどろろと百鬼丸の危機には現れるのに、琵琶丸は、ばんもんのときも、このときも縫の方の動向をキャッチしておきながら、「法師」であるにも関わらず命に関わる場面で二度も放置してしまうという不思議。自慢の心の眼はどうなった? ・・・脚本上の都合としか思えない。
その直後には、どろろは百鬼丸と井戸の中でイチャイチャ。「ふう、助かったぁ。アニキの腕柔らかくてあったけえや」 「綺麗。空、綺麗だ。どろろ、綺麗だ」。
肉親を助けることはすっかり諦めて、こんなに気持ちの切り替えが早い人間っていますか?
どろろも縫の方に「おっかっちゃん」と懐き始めていたのに。・・・二人がおかしいというよりも脚本がおかし過ぎます。
二人があんまり呑気だから、視聴当初は縫の方、多宝丸、寿海が死に逝くと思ったのは全くのこちらの勘違いで、寿海が多宝丸と縫の方を助けたのかと思ってしまったぐらい。この話はともかく脚本がおかしい。作画も演出もBGMも頑張っているのは分かる。だけど脚本の粗さ、ご都合主義はいかんともし難い。戦国の世の人の感性はこんなもんだ、これはアニメだからと言われたとしても展開もセリフも変過ぎて、中盤以降は全くついていけないお話だった。
Amazonプライムで配信されることもあって、一揆や闘争が排除されたり、どろろ(子供)が刀を欲しがらない。など、何らかの忖度が沢山あり、製作側も苦労されたのだろうと考えられますが、
それらを踏まえた上でも、この脚本はセリフで説明しすぎですし、辻褄が合わないことも、整合性が取れないことも多いです。
時代考証に至っては、それほど詳しくない私も首をかしげるものが多かったように思います。
時代ファンタジーと考えて楽しもうと思ったのですが、
国や全体のために個を犠牲にすることの正当化は「自分たちだけ助かればいい」に帰結すると思いますし、「自分たちがやってきたことが報復される」「相手にも尊厳がある、打たれれば打ち返す」ことを考えていないような気がして、それはダメなんじゃないかと思います。
琵琶法師が最終回で前身が侍であったことを匂わせるセリフがありますが、唐突でした。
脚本術に「ピストルをテーブルに置いたら使わなければならない。(伏線回収)」と言うのがあるそうですが、この脚本は「そのピストルいつ置かれたの?」と思ってしまうような展開が多かったように思います。
1話で富樫政親って実在の人物を出したから、どこまで史実と絡めるのかって期待もあった。一向一揆についてどう扱うのか。
それなら歴史家の先生に時代考証してもらえば、脚本にも説得力が生まれただろうし。
村人3人とどろろが関わるのも唐突な感じがして、いっそばんもんで生かした助六を再登場させて、これからどうするか話させた方がいいんじゃないかとは思った。
原作を抜きにしても、このアニメを通して何を伝えたいのかが最終回まで見てはっきりしなかったな。
もう少しキャラクターの心理描写を丁寧に表現して欲しかった。
Amazonのレビューを見ると、原作を知らずに今作を観た人で最初は好ましく観ていた人でも、回を追うごとにつまらなくなったという意見は多い。特に2クールに入ってからが目立つ。結局のところ、2クール目に突入する直前の「ばんもんの巻」が大きな分かれ目になったと思う。
ばんもんの巻は、それまでの他の話以上に改変が大きく、アニメでは民衆の悲劇の扱いはごく小さな物となり、醍醐家のお家騒動にスポットが当てられ、ここで死ぬことになっていた多宝丸を生かし、2クール目の終盤では彼を特撮ヒーローばりに変身させ、腹心二人と異形戦隊を組ませ鬼神化した百鬼丸と戦うという更なる大きな改変に出た。
そうすることで、それまでにあった大河ドラマのような重厚な雰囲気も、時代劇映画のような無常感もふっとんで、一向一揆どころか、どこかで見たような怪人ヒーローもののようになってしまった。
困ったことに、ばんもんの巻以降、縫の方は言動がおかしい死にたがりのパフォーマーの様になってしまったし、赤子の百鬼丸と出会い立ち直っていたはずの寿海も、育児ノイローゼを引きずったみたいに百鬼丸のその後を気に病み、過去に囚われ遺体に義体を施す病んだ様な人物になり、再び立ち直ったように見えていたのに、縫の方に共鳴するように逝ってしまった。
多宝丸も致命傷だったのかはハッキリ分からない。兄 百鬼丸を追い詰めたこと国を荒廃させたことに責任を感じ、贖罪として死を選んだのかもしれないが、縫の方の「これからはずっとそばにいる」という甘美な囁きに落ちたようにも見える。縫の方に「ともに生きよう」と言われれば頑張って生きそうに見えたんだけど。百鬼丸は、この中の誰も死んで欲しいなどとは思っていないのに酷すぎる。
レビューには毎回同じような不幸話ばかりで飽きるという意見もあった。これから贖罪しようと思えば出来る縫の方、ずっと贖罪をして来て多くの人々を救って来た寿海まで死を選んでいる。死こそが救いであるかのように。この人たちは死ぬことが幸せだったのかもしれないけど、見ているこちらが清々しくなるはずもなく。幾ら創作でも無駄に死なんでくれと思う。
原作の寿海には自殺する理由なんて何処にもないんだけど。百鬼丸を助けた寿海は生命の象徴みたいな人だったのに。何故アニメでは寿海を苦しみの多い人生を歩ませたのか。百鬼丸に再び救わせるで良かったと思う。
今回のアニメでは原作と違って百鬼丸の命、身体で醍醐の国が成り立っているという図式が加わっている。
これがあるためか、最終回で百鬼丸が身体を全て取り戻しても爽快感があまりない。
生け贄というのは昔の日本にも限らず、他の国でもあった風習なわけだが。こういった日本昔話みたいな話は、一話完結ならそこまで引きずらないけど、これが全話に渡って存在してあるから気持ちのいいものでもない。それでも1クール目はその辺りそこまで気にしなくても良かったわけだけど。
国の安寧のため生け贄にした改変を加えたことで、言ってしまえば昔の人達がそうやって生きてきた、生きのびてきた、ある意味人間の持つ見たくない部分を見せられているわけで。
現代人の感覚とは合わないため、拒否反応がどうしても出るんじゃないかと。
これをどろろではやって欲しくはなかったなと思うと同時に、どうせやるなら醍醐の国が荒廃しても再生に向かう様子をきちんと描いて欲しかった。
どろろの村人3人に語ったお宝を使ってというのも、どこかふわふわしてて非現実的に聞こえるし。リーダーシップはあっても、文字の読み書きができないどろろがどこまでやれるのか、火袋達の二の舞にならないかとか。あの3人は信用に足りるのか、もし足りたとしてもそれだけの能力はあるのか。知識と教養のない人間達がどこまで出来るんだろうかとか。
そう考えると、多宝丸と寿海を生かしてどろろ達と合流させる方がいいんじゃないか。
多宝丸の国の荒廃する様子を見て自分がなんとかしなきゃと思う気持ちは本当だと思うし、跡取りとして育てられた彼なら土木や公共事業の知識も、場合によっては有力者とのコネクションも彼なら持っているのでは。
鬼神の加護を失い荒廃した土地が、今度は人々の力によって再生に向かう様子を描いてこその救いだと思う。
アニメージュの記事で裏設定や制作時の事情が語られていますが、結局、後出しじゃんけんと言い訳に終始している印象を受けました。
脚本家の方と監督の描きたかったことの乖離が思っていたより大きかったということなのでしょうか、
テーマと着地点のぐらつきが悪い形で後半に出てきたように思います。
また、作品というテキストの捉え方、解釈の仕方は人それぞれですが、
過去の名作をリメイク、
それが放映・配信されて多くの視聴者の目に触れる映像作品である以上、
何を表現しているのか、製作者サイドが自覚的であったのかは問われると思います。
(残酷な表現、鬱展開の多い作品を発表してはならないという意味ではございません。)
なぜ、親に呪われた子の再生の物語でその子から感情の表出まで奪わなければならなかったのか、その子の腕と目を奪い肉親が彼を殺そうとする描写は必要であったのか、国や大勢のためにと個人に我慢を強いる、親たちが自死を選ぶということはどういうことなのか、
これらをどのように表現するのか、
また、「百鬼丸」が赤子同然の無知の為、異性に対して過剰なスキンシップをとる描写があるのですが、性別を逆転し彼を彼女とすれば、俗な言い方をすれば「ラッキースケベ」です。
ハリウッドでもこのようなヒロインが多かったのですが最近では見られません。
このような関係性を描くことの是非は問いませんが、
製作サイドは自覚して、この設定を採用したのか? 疑問は残ります。
今作の支持派ではないですが、好意的に考えると「視聴者に様々なことを考えさせることが、この新生どろろのテーマだった」のでは。制作側は「如何様にも取れる物語作りこそが深い」と考えていたのだろうと思う。
実際のところ、深くしようとするあまり詰め込めるだけ詰め込んだ結果、矛盾だらけになってしまい、私には登場人物の皆が皆、本当には何をしたかったのか分かり難い物語になってしまった。
百鬼丸が体を取り戻したかったのには、困っていたり苦しんでいたという描写がないまま、終盤まで「体は自分の物であるという所有権だけ」で貫かれ、人にとって「最大のモチベーションとなり得る喜びの感情」を彼から奪ってしまったストーリー作りは如何なものかと思った。
よくよく視聴していると、百鬼丸は「鬼神が今も俺の体を喰っている」と寿海に発言しているので、17話以降はモチベーションが「鬼神や景光に対する復讐心」に切り替わったことが分かる。だが、このことでなおさら「所有権と復讐心」だけで体を取り戻そうとする百鬼丸自身が自らの体を闘うための「道具」と考えているように見えてしまった(実際に寿海に向かって、戦うために義足が必要だと訴える描写がある)。
このことは鬼神が多宝丸たちに百鬼丸の体を貸し与えたり、縫の方や琵琶丸が百鬼丸が体を取り戻そうとする切実な思いを“「玩具」を取り上げられて泣き叫ぶ幼子"と称したのと呼応するように見えて奇妙だった。
「手があることが良いことであるとは描きたくない、体を取り戻すことで個性が薄れ、特有のアクションが出来なくなる。百鬼丸は感情を表に出さない」という制作側のコンセプト通りに物語が進められたのだが、その原則を終盤まで無理に引っ張ってしまったので、百鬼丸だけではなく、どろろも、縫の方や寿海、琵琶丸も矛盾だらの人物として描かざるを得なくなってしまったのだと思う。
体があることで喜びを感じるし喜びを知るという人にとっては当たり前の感情、知能が備わっている生物なら皆が持っている「好奇心から生まれる喜び」という感情、これを否定してしまったことが、この物語も登場人物達も歪めてしまった大きな要因だと思う。
>>1228
百鬼丸の好奇心が自分には向かなかったことも、物語を難解というか、もったいない方向へ進ませてしまう要因になったと思う。
>>1228
1230ですが、>>1230
は へ返信モードで送ろうとしたのを誤って通常モードでコメント送信してしまったものです。で、こちらはというと1230の続きも兼ねているコメントです。個人の意見なので回答にはなっていないですが、自分が今作から感じた印象は次の通りです。
「過剰なスキンシップ」というのが、今作の百鬼丸の他者に対する好奇心の表れで寿海から学んだ他者に対する親しみや好意の表現で、人間らしい感情と言えるとは思うけれど…。
(話変わって今作の百鬼丸は自分に対しての好奇心は、ほとんどないので、あまり喜びという感情は出さないようなのですが…)百鬼丸のスキンシップの相手が異性ばかりだったのは、本当のところ女性視聴者に向けてのサービスで、どろろの嫉妬心を煽るというラブコメで物語を盛り上げようというファンサービスだったんだと思う。
私のように、原作の男気のある百鬼丸ファンにはガッカリなアニメでしたが、今作では無垢で何を考えているのか分かりにくいある意味神秘的(?)というか浮世離れした雰囲気を持ち、子どものような幼い百鬼丸という新たなファン層を獲得したかったんでしょうね。
私はあまりバランスを欠いた人物像は好きではないですが、アンバランスな人物像というのが、最近のアニメでは需要が大きいようですね。肉親と知りつつ百鬼丸の体を奪う多宝丸には絶句しましたが、百鬼丸が多宝丸の顔を刻み過ぎなのにも絶句しました。それだけ互いが憎かったということなんでしょうけれど…。戦国時代だという設定であっても、この辺りの倫理観が自分には合わずじまいでした。
監督と脚本家の取り入れたい設定や展開、台詞のために、キャラクター達が脚本家の手駒のようになってしまって残念です。
もう少しキャラクターの葛藤や心理描写を丁寧に表現していたら、感情移入しやすかっただろうに。
キャラデザは良かったと思うし、背景もBGMも良かったけど、肝心のストーリー展開がよく分からないもの、テーマがはっきりしないものになれば、一体何を伝えたかったのだろうともやもやしてしまいます。
>>1229
1231の冒頭で補足したつもりが何故か文字抜けしてしまったので、すみませんが再度補足です。
1230ですが、>>1230
は へ返信モードで送ろうとしたのを誤って通常モードでコメント送信してしまったものです。意見を押しつけたいのでもないですし、返答を求めているのでもないですが、閲覧する際には関連コメントという扱いでお願いします。
また文字抜けしませんように… (^^;
多宝丸と縫の方と寿海の3人がみんな死んでしまうラストが、どうしても腑に落ちない。寿海は百鬼丸のもとへ行く途中、行く手を阻まれて身動きできなくなった縫の方に手を貸したのに、多宝丸と共に死ぬという縫の方を止めなかったのは何故?
寿海が縫の方の手助けをしたのは、自分が百鬼丸に会いたかっただけではなく、縫の方と百鬼丸を引き合わせたかったからではないの? 何故、二人を引き合わせておいて、みすみす再び別れさせるようなことが出来るの?
死者にばかり目を向けていた寿海は百鬼丸と出会ってからも、心の奥底ではカナメのことを引きずっていたということ? ・・・でも、寿海がいつも思い出すのはカナメではなく百鬼丸のことだった。だったら、寿海は百鬼丸を幸せにするので良いと思う。だから、寿海は全力であの場のみんなを助けるで良かったんだとなおさら思う。
百鬼丸は自分の命を奪おうとした多宝丸に「勝手なことを言うな!!」と言っていたけれど、ここは縫の方と多宝丸に「勝手なことを言うな!!」と言って欲しかった。
そうしたら、みんな我に返って生きようとしたんじゃないだろうか。
寿海には、「菩薩像なんかいらない。おっかちゃんがいてくれれば、おっかちゃんが生きていてくれればそれで良い」って言えば百鬼丸が大好きな寿海は絶対死ななかったし、多宝丸たちを助けたんじゃないだろうか。
今は戦争のない日本だけれど、生きたいのに事件や災害に巻き込まれて死んでしまう人もいる世の中だから、感単に死んでは欲しくなかった。
最期のシーンが最近日本国内であった悲しい事件と重なって見えて余計にそう思う。生きようとすれば生きることが出来たのに、例え物語りの中であっても勝手に天命を定めて死にたいと思うだなんて間違っているよって。
1話冒頭の「地獄とはこの世のことよ」「日々祈り空しく、いずれ御仏への疑いが生まれるやも、その前に死ぬるは何より…」という上人様と醍醐景光とのやり取りで、この話の時代は私たち現代人の考える綺麗事は通じない、そんな過酷な時代なんだなって思っていました。
でも、最終話辺りでは鬼神にも侍にも頼らず自分たちでやろうとなりました。
ですがそうなると、1話冒頭のやり取りが茶番に見えてしまうんですよね。天災など人の力ではどうにもならないことがあるから鬼神にもすがったのでは。禁忌にも触れてでもどうにかしようとしたのでは。そして、なぜこの話での仏様は百鬼丸は助けてくれるのに、みおやその周りの子供達は助けてくれないんでしょうか。そんな存在だから上人様も失望してしまったんじゃないでしょうか。
「兄貴みたいに自分の手で掴まなきゃ」というどろろの台詞がありますが、正直人間離れした力を持つ百鬼丸を引き合いに出されても、あまり共感できないというか…。
原作での寿海が仕込んだギミックを駆使して戦う百鬼丸を引き合いを出したなら共感できましたが。
各雑誌の記事を読んでの私見です。
監督はPS2のゲーム版「どろろ」のような活劇、
菩薩の加護を受けた「百鬼丸」と鬼神の影響を受けた「多宝丸」というキャラクターの対立で「光と闇の戦い」を描きたいと考え、
脚本家の方は「浄瑠璃・百鬼丸」のような家族の相克や恋愛模様が描きたかったということなのでしょうか、
結果として、今回の新アニメは「百鬼丸」の成長をみんなが阻むという構造になりました。
「どろろ」でさえ「身体(自分自身)を取り戻さなくて良い、私が側にいるから」と阻みます。
この「どろろ」が望んでいるのは「百鬼丸」との共依存関係です。
蛇足ですが、原作の二人は自立しています。
それでも「百鬼丸」は自身を取り戻すのですが(親の呪いからの解放)、
「多宝丸」は呪いから解放されません。
母とともに「燃える城の部屋で」という状況は「エディプスコンプレックス」的に見え、
「母は菩薩系で鬼神の加護を受けた多宝丸とは合わなかった」そうなので、
彼もまた「親の呪いに苦しむ子供」です。
生き延びることができた「百鬼丸」と、
生存することができなかった「多宝丸」
と、捉えることができると考えたのですが、
「百鬼丸は、二人の母を助けることができず、トラウマに…」といわれると、
母たちは死ぬことで「さらなる呪いを子供にかけている」気がします。
山岸涼子先生の「スフィンクス」のように、
やはり、いびつな構造の話であると思います。
後に彼が旅に出るのは、再度呪われ罪悪感に苛まれたためか、と思うほどですが、
脱出時に「百鬼丸」は「どろろ、きれいだ…」と呑気に言うのです。
感情の乖離があるとしても無理があるのでは…、と感じてしまいます。
脚本・構成の粗を感じます。
23話ラスト どろろのセリフから
「もう目ん玉でも手でも足でも鬼神にくれてやれ! 欲しけりゃおいらが、目になってやる! 手足になってやる! だから鬼になっちゃ駄目だ!! 死んじゃ駄目だ兄貴!!」
…これが受け入れられれば、このアニメが好きになれるのかもね。
体よりも命が大切だと。「命あっての物種」だと。だったら、何故、アニメではミオにあんな無茶させたんだろうね。敵陣で春を売る仕事を掛け持ちって、それが禍の種となってみんな全滅って、これじゃミオがパンドラみたいだ。
命あっての物種なのに種籾だけが残ったって、シャレにならないよ。ミオに不幸の種を運んで、それで希望が残って、その象徴がが種籾? 「種籾よりも命の方が大切だよ! 」 これじゃパンドラの箱よりも希望がない。最終回で稲穂が揺れても全く納得できないよ。
改変を加えてよりドラマチックにということなんだろうけど、これじゃミオだけじゃなくて「みお」も救われない。(※みおは原作ではミオ。はっきりしないが仕事は同じだったような描写はある。でも死因は別。敵陣で掛け持ちという描写は一切ない。)
ハーメルンの笛吹だって、病気のお母さんがいる子は助けてくれた。孤児の誰か一人でも、ミオの種籾を預かったまま、種籾を更に受け取るためにお使いに行ってとかで助かったとかなら、アニメ版のミオのラストを受け入れられたかもしれない。ここまで話を変えるなら、制作側には、あんな侍じゃなくて “孤児たちの誰か一人だけでも良いので「命」そのものを助けて欲しかったよ。”
それと、どろろ。百鬼丸は、ただ感じていただけで一度も本当の目で世界を見たことがないんだよ。やっと両足で大地を踏みしめることが出来るようになって、やっと本当の両腕を取り戻したのに。
そもそも、自分の不注意で体を失ったんじゃないし、病気で失ったのでもないのに、何故、諦めさせようとするのか。脚本が本当に適当すぎると思う。脚本家さんも、こんなことを血を分けた肉親や親友に言えるわけないと思う。そもそも、登場人物達に対して愛情がなさ過ぎる。
どうせ言うなら、
「ここまで来たんだ。全てを取り戻せよ兄貴! これでやっと兄貴は本当の自分を取り戻せるんだ。だから鬼になんかなるなよ。人の心は絶対に失わないでくれよ」で良いじゃないかと。
>>1237
1237の続き。
それにね、百鬼丸たちはミオとタケの墓を作って弔っていたけど、お墓が二つしかないのもあんまりだと思ったよ。死んだのは二人だけじゃないのに。そもそも、他の子たちはタケ以上に何も知らなかったから、あの子たちは何も知らず、墓さえも作ってもらえないのかと、本当に登場人物たちに愛情がないアニメだなとつくづく思った。
監督が同じなのでよく引き合いに出される “るろうに剣心 追憶編” では、まだ「心太」と名乗っていた幼い剣心が、亡くなったみんなのためにお墓を作っていたというのに。
最終回でも、寿海たちの墓も墓参りのシーンもないしね。
結局、寿海たちの扱いもモブ扱いになってしまった孤児たちと変わらないのだなと、制作側の冷たさを感じるアニメだった。
>>1238
アニメなんてそうやすやす作れるもんでもないのに冷たいとかよくかけるわ。お前の文句タラタラの文より遥かに時間と金かけてるのにな。じゃあお前が脚本書いてアニメ化しでもしてろよ
原作が漫画の神様 作ってる人達も凄腕の人達 男にも女にも受けるキャラデザ 毎話毎話心に伝わるものがある 良いアニメだと思う
このレベルのアニメは10年は出てこないだろうな。話の展開や演出ともに高かった。アジカンは除く
>>1242
アクションの迫力は、進撃の巨人やヴィンランド・サガなどとは比べようもないほどしょぼく、物語としても、攻殻機動隊やPSYCHO-PASSやまどマギのような深みは無い。放送が終わればすぐさま忘れ去られるアニメの一つに過ぎないよ。始まった当初はよかったし、期待もしていただけに、失望。