アニメ『どろろ』はおもしろい?つまらない?
1話から見ていたが、最終話だけ見ていないw
見る価値も意味もない、ウソどろろを見なくて良くなる喜びで一杯だったヨwwww
ツインエンジンだか何だか知らんが、何で燃やされへんねん。。
俺のどろろを無茶苦茶した事、許さんからな!!!!!
>>1248
最終話だけ観ないワケとは何なのか。観る価値も意味もないのを、ムダに惰性で観続けた自分への言い訳なのか。
出来の悪いアニメだったとは思うが、燃やせなんていう狂人じみた発言のほうこそ許せんよ。
鬼神っていったい何だったんだろうという謎が、特に説明もないまま終わってしまった印象です。
多宝丸を生かすなら、彼にその謎を解く役をやらせても良かったんじゃないかな。せっかくばんもんの巻から生かしたのに、父親の代理人みたいな役にしたのはもったいないなと思いました。
べたかもしれませんが、ラスボスは父親の景光か最後の鬼神で良かったのでは。
監督と脚本家の方は、王道の展開が好きではないからやらなかったのか、描くのが苦手だからやらなかったのか。
今作の景光から、あの荒んだ室町時代を生きる領主としての凄みをあまり感じられなかったのが残念です。国のことは鬼神任せ、生け贄にした百鬼丸の始末も産婆さん任せ、多宝丸任せ。それで、鬼神の加護を失い地獄堂に来た百鬼丸に文句を言う。これじゃ、二人の息子の父親としても、領主としても、武将としてもどうかと思う人だし、ただの情けないおじさんにしか見えない。
武将にとって家の存続は重要だったはずで、そう考えると跡継ぎの多宝丸が百鬼丸討伐に向かい、それを両親も従者も誰も止めない状況はおかしいと思うのですが。兄弟対決させたい脚本家の都合でしょうか。それにしてももう少し自然な流れでできないのかなと思いました。
>>1250
鬼神が何だったのか本当に謎ですね。“今作”の鬼神についてはウィキペディアに簡単に説明が載っていて、“鬼神”で辞書検索すれば、なんとなく分かる気がするし、最終話の醍醐景光の言動から推測することも可能ですが、どうやって彼らが誕生したのか、人を喰い、かどわかす以外に何か目的はあるのかということに触れた物語をもっと観たかったです。
通常のあやかしがベルセルクの使徒ならば、鬼神はゴットハンドにあたるのだろうか?と思ったりもしますが、今作の鬼神は人と直接遣り取りしたり人語を操り語り掛けてくるというストレートな表現を殆ど取らないので、人を装い直接人と遣り取りしていた「万代」や鯖目の奥方であった「まいまいおんば」 のような鬼神に、もっと登場して欲しかったです。
鬼神は何も語らず人を喰って暴れるだけのものが多かったので、ヒグマやライオンのような野獣と対して変わらず、その点が個人的にもの足りませんでした。“もののけ”を扱った物語の醍醐味の一つとして、人に化身し見た者を魅了させるということがあると思うので、まいまいおんばが美しい女性に化身した姿が殆ど描かれず、蛾の化け物の姿ばかりで描かれていたのも残念です。
(アニメの方では美しい奥方のシーンが僅かしかなかったので、それならば蛾に単純なモンスターの顔が貼り付いているような姿ではなく、『クレイモア』の妖魔のように恐ろしい姿でありながら美しく妖艶な姿で登場させていたら、鬼神の存在がもっと魅力的になったと思います。今作ではあやかしの描き方が単調だったので変化が欲しかったです。)
原作の「四化入道」や「どんぶりばら」は、それぞれが物の怪、魔神といった存在でしたが、どのように彼らが あやかしへと変化したのかを百鬼丸や背景を知る者、当事者である あやかしの言動から読者にも分かるようにストーリーが組み立てられていました。そういう工夫が今作にもあれば物語の魅力が増したと思います。
今作では寿海が あやかしについて推測を述べていて、前述の景光のラストからも鬼神について推測することも可能ですが、鬼神へ至ったものたちの物語が作中にもっとあれば分かり易かったし、百鬼丸が原作のように謎解きをしないなら仰るように多宝丸がするのも一興だったと思います。個々の役割や存在意義が丁寧に描かれていたら、唐突さや不自然さを感じさせ難い物語に仕上がったと思います。
>>1253
鬼神は神様、災いをもたらすけど、同時に恵みをもたらしてくれる存在、その土地を守る守護神でもあり、祟り神でもあるのでしょうかね。
この話でお寺やお坊さん、尼さん、お地蔵さんは出てきても、神社や神主さん、巫女さんは出てきてないなと思いましたので。
鬼神と仏の対立も神道と仏教の宗教戦争みたいに見えますね。
これから辿る史実では、百年後くらいに第六天魔王を名乗る信長にひどい弾圧を受けてしまうので、(信長は神道の家系らしいですし)なんとも言えませんが。
まいまいおんばは、人形態が妖しくも可愛いキャラデザだったので、あの姿でもっと出番や台詞が見たかったです。本当にもったいないと思います。
原作は分かりやすく物語が作られていますね。少年漫画で、子供達に読んで欲しくて描いたこともあって、テーマも伝えたいこともストレートで分かりやすいです。
今作は監督と脚本家の方の趣味が入りすぎて、物語がややこしく、分かりにくくなった印象を受けました。
アニメが終わってからもこうやって書きんでしまうのは、それだけ今作に期待があったからなんだなと自覚してしまいます。
次またどろろ がリメイクされるなら、原作のテーマをしっかりなぞった上で作って欲しいし、百鬼丸とどろろだけでも性格は変えて欲しくないなと思います。あと、そろそろ原作でも名前だけしか出てこない富樫政親を出して欲しいです。
>>1254
鬼神は “土地神” としての顔も持っていたようですね。
原作の「万代」とか「どんぶりばら」、雑誌掲載時の「まいまいおんば」も、その土地に根付いた精霊といった印象があるので流れとして納得できます。
鬼神の誕生の仕方や目的は原作の「四化入道」や「万代」と大差ないと想像していますが、「四化入道」との大きな違いは鬼神が人間との取引に長けていて念が強く、長い歳月を掛けて存続し続けたことかと。他には、百鬼丸のように生まれながらにして霊力の強い人間を多く喰らった者が今作のような鬼神になったのかなと。
歴史と伝奇ロマンを融合させた物語を期待していたので、鬼神の謎も性格も取り入れた魅力的な物語を見たかったです。もとが亀や狐だったとしても、幾百年と齢を重ね人を喰ってきたのなら、獣とも人ともまた違う「性格」や「志」とか、「アイデンティティと」呼べるようなものを見たかったですね。
アニメ制作背景は殆ど知りませんが、最期の鬼神像の雰囲気や、縫の方が息子たちに向ける執着心が、なんとなく永井豪先生の『手天童子』の影響を受けている気がしましたし、作中の表現もところどころ『デビルマン』っぽく見えました。
鬼神の力を借りているとはいうものの、多宝丸たちが百鬼丸の手足を奪って自分たちのものとして補ったり、「鵺の巻」では喰われたはずが体全部を鬼神に取り込まれて蘇った 賽の目の三郎太なんかは、まんま『デビルマン』やその前身の『魔王ダンテ』みたいです。
他には、人間とあやかしの心の触れあいを描いたアニオリ回の「絡新婦の巻」は緑川ゆき先生の『夏目友人帳』みたいだし、犬の毛皮を被った少年が登場する「さるの巻」と刀鍛冶の娘おこわが登場する「天の邪鬼の巻」は高橋留美子先生の『犬夜叉』みたいな雰囲気です。
アニオリ回や終盤は他作品から逆輸入したようなつくりが多く、参考にしたという手塚先生の『火の鳥 鳳凰編』ですが、主要キャラクターが仏像を彫り、業を背負っているということ、最期に炎に焼かれて落命すること、そのぐらいしか共通点が思い浮かびません。何れにしろ原作の持ち味が生かし切れていない様に感じます。
原作を引き継いで再構築するのならば、逆輸入を感じさせない独創的な作品を望みます。原作旧版や雑誌掲載時のもの、神道、仏教、日本史、民俗学から磨きを掛けて作り上げていただけたのなら、幅広く楽しめそうですね。
予想以上に面白かったです。戦闘シーンも見ごたえがありますが、登場人物のそれぞれの人間臭さもストーリーに深みを加えます。
結論、ここにいる老害は全員ゴミ
池袋で何人もひき殺したクソジジイの老害といっしょ
昔のどろろの思い出と共に、墓場に行ってくれ
クソジジイ、クソババアども
老害が大嫌いだ。本当に嫌いだ
お前らの時間は昔のまま止まってるんだよ
はっきり言って昔のどろろは面白くない
ここのバカは批判だらけだ
>>1256
俺がコメントをしたのは超久しぶりだ
誰が誰だかなんて区別は出来ないだろうが
面白かったし、面白くないと思った事が無い
どんだけ、どろろと原作者バカにしてんだ老害ども!
コメントしてる暇があったら墓場にでも行けよ
お前らの時代は終わったんだよ
>>1257
あなたの正体は、ここで「老害連呼野郎」とあだ名され、1056では謝罪文らしきことを書いていた人でしょう。 >>1056
“このユーザーのコメを全て非表示(このトピ内)” をクリックすれば、あなたのコメントは全部表示されなくなるので、あなたが どのコメントを書いたのかは、誰でも即時に判断できますよ。
しかし、過去コメもホント「老害連呼」だし「洗脳」だとか、被害妄想甚だしい。別に、ここにコメントを寄せている人は、コメを読んだ人を洗脳しようとしているのでも、このアニメが好きな人がおかしいと言っているのでもないのに、何故、あなたはここで罵詈雑言を吐きまくるのかな?
あなたのは、唯単に自分と価値観が合わない人たちが嫌いで年配者が嫌いだから、勝手に結びつけて、ここで八つ当たりをしているようにしか見えない。そもそも原作ファンが皆、老人という発想がおかしい。
原作は今なお販売され続けているし、旧版や雑誌掲載時の情報は、今のネット社会なら、リアルタイムで作品を読むことが出来なかった人にだって、簡単に情報を得ることができる。そういうことを考慮することなく、原作ファンは一括りに害悪だと結論づけるあなたの頭の方が余程さび付いてて、迷惑ですよ。
過去作品が良かったとか、過去作品の良さを生かして欲しいと思うことのどこが老害なんでしょう? せいぜいが「懐古主義」とか「原点回帰主義」でしょう。まだ「懐古厨」という言葉の方が余程暖かみがあって、人間らしい。
だけど、あなたの書くことと言ったら、他人のことを勝手に犯罪者扱いしたり、原作ファンが原作『どろろ』以外、なにも関心を持たず、新しい作品群には一切興味も感心も示さないかのように、“昔のどろろの思い出と共に、墓場に行ってくれ”とか決めつけが酷く、人として問題大ありですよ。
“どんだけ、どろろと原作者バカにしてんだ老害ども!”って、それは正しくあなた!
一番、原作者をバカにしているのも、あなた。現に1256で
>>1256
“はっきり言って昔のどろろは面白くない”と発言していますからね。あなたの論法でいくと、あなた自身が「“どんだけ、どろろと原作者バカにしている”という定義にピッタリ当てはまる。」
自分が言ったことの意味も、他人に配慮することも出来ない、そんなあなたは紛れもなく、あなたが言う「老害」ですね。
>>1258
ほんとその通りです。
何故頑なに自分の考えを押し通し他者の考えを受け入れられない。
勝手に自分の持つイメージで決めつけ暴言を連発し不快にさせる。
こういう人には何言ってもムダなんでしょうが。
敷き詰めていくと一種のテロリズムを感じるので寒毛がします。
自分とは異なる様々な意見があることを認める包容力、柔軟性を学ぶべきですね。
>>1257
超久しぶりで見に来たら、いったん反省文を書いていた奴がまた、判で押したように同じ下劣なコメントをしていて笑える。突然反省していたのには違和感あったからな。その時々の感情だけで生きている動物的な奴なんだろう。暴力的な発言をして他人を罵るだけで、このアニメのどこが優れているのか語る言葉なんて一つも無いんだから。こんな頭悪くて下品な男が褒めているアニメなんて、やはりロクなもんじゃないんだと思える。
>>1256
& >>1257
おもしろいか、おもしろくないか投票する形式なんだから、おもしろくないと思った人が、その理由を書けば当然、批判的になるのは仕方ない。
そんなにここが嫌なら、自分でトピックス立てて、
「現代版アニメどろろが好きな人、一緒に語り合いましょう!」
とでもして、雑談チャットに投稿すればいいじゃん。
それか、他に自分に合いそうなサイトを探すとか。
読むとストレスなら、他をあたればいい。
それだけの話。
障害のある方が『僕が百鬼丸の戦いに気持ちをひかれるのは、生まれてすぐ捨てられ、「生きることを否定された」彼が一生懸命自分自身の「生」をその手に取り戻そうとする、その姿なのです』
と、書いておられるのを読んだことがあります。
この「どろろ」という作品は、虐げられ、生きることを否定された主人公たちが、
「ふざけんな、おいらぁ人間だ」「生きていたい」と抗う物語だと思います。
今までも、小説、ゲームブック、ゲーム、映画、舞台、人形劇… と多くのリメイク作品があり、「魍魎戦記マダラ」をはじめ、原案・翻案されたものに至っては数えきれません。
…ですが、
映画のキャッチコピーは「必死に生きて何が悪い」、ゲームは「俺を返せ」
と、「生」「尊厳」を取り戻そうと足掻こうとする二人を表現しており、各作品ともテーマを大きく逸脱していることは無かった様に思います。
なので、余計に今回の新アニメの「人か鬼か」には違和感を覚えます。
必死に「人であろうとしている」主人公たちに「生きるために抗い、奪われたものを取り戻そうとするとお前は鬼になる」と同調圧力をかけてくるのは、やはり頂けません。
最後まで、このテーマのぶれがこの新アニメの作劇に影響を及ぼして、いろいろと中途半端であったなと残念に思います。
>>1259
>必死に「人であろうとしている」主人公たちに「生きるために抗い、奪われたものを取り戻そうとするとお前は鬼になる」と同調圧力をかけてくるのは、やはり頂けません。
つまり“ダブルバインド”ってやつですよね。
【“ダブルバインド”は日本語で『二重拘束』を意味している。二つの矛盾する命令を同時に与えることで、命令された側がジレンマを抱え、強いストレス状態に陥るコミュニケーション方法をダブルバインド・コミュニケーションという。ダブルバインド・コミュニケーションは『どちらを選択しても不都合が生じ、逃げることが許されない』という状況に混乱し、強いストレスを感じさせる。】…という。
分かりやすい例が、どろろのこれ。
「もう目ん玉でも、手でも足でも鬼神にくれてやれ。欲しけりゃおいらが目になってやる。手足になってやる。だから、鬼になっちゃ駄目だ、死んじゃ駄目だ、兄貴!!」
命を取ろうと全力で向かってくる相手に、どうしろというのか。戦わねば百鬼丸死ぬし、戦いを避け続けても結局、最後には残った頭を鬼神に取られて、百鬼丸は絶命してしまう。作中では鬼神と戦える人物は、他には琵琶丸ぐらいしかいなかったし、その琵琶丸だって百鬼丸と組んで戦っても、仕留め損ねていたし…。
どろろの考えは唯の綺麗事で、盲目で胴体だけで生きていく自分を想像したら、とても言えないセリフで、あまりにも酷というもの。
寿海、縫の方、琵琶丸、どろろ、今作の登場人物たちは、ダブルバインド・コミュニケーションで百鬼丸を振り回してた。体を取り戻す方法は鬼神を倒すことしかないのに、それは国を乱すことになると言い、体とは単なる道具であり、他に幾らでも替えがあるかのように主張していた彼ら。
そして、村の青年までもが、「百鬼丸を再び生贄に差し出せば、醍醐の国の乱れは治まる」と言い出す。こんなの誰が納得できるのか。そんな人物ばかりが登場する物語に共感、共鳴できるのかと、ガッカリな展開が多過ぎた。
『どろろ』の原作には百鬼丸とどろろが迫害されるシーンは確かにあったけれど、こんな薄情者で他力本願な人たちばかりじゃなかった。人間は誰もが醜く、エゴイストでドロドロですよー、なんて話しじゃなく、影ばかりじゃなく光も希望も描かれていたのに…。影に力を注げばリアルってもんじゃないし、今作はエンタとしてもバランスに欠いていた。
>>1259
1260ですが再度失礼します。 >>1260
の続きです。
作中で“ダブルバインド”を生じさせる発端を作った醍醐景光。今作の醍醐景光は複雑な思考を持っていて、自ら嫡男 百鬼丸を鬼神に生贄に差し出しておきながら、出世欲に駆られた暴君として描かれていた原作とは違い、領民思いの名君、善人として描かれていた。
けれど、彼の振りかざす自己犠牲とは、本当には自らは犠牲を払わない“他者任せの自己犠牲”。だから、ここでも大きな矛盾がある。けれども、この物語では矛盾を一切無視して、あたかも正しいことであるかのように、終盤まで押し進めてしまった。だから真剣に見続けると、こちらも“ダブルバインド”にさらされてストレスが溜まってしまう。
作中に盛り込まれた“ダブルバインド”に付き合わされるようにして、物語はどんどんややこしく、景光に感化されたような支離滅裂な言動をとる登場人物ばかりになってしまったんだと思う。不幸の元凶を作った男を善人で通すには無理があった。
こちらの景光の初志が違うのだとしても、景光が段々と暴君になっていった方が物語として破綻がなかったし、いきりまくるだけの凡庸でつまらない人物に収まらず、もっと存在感ある、「人間 百鬼丸」と対極を成す「巨悪」として描かれていた方が見応えがあったなと思います。
「人か鬼か」は、ホントいらない。
“ダブルバインド”と「人か鬼か」の相乗効果で、百鬼丸の人物像も、他の人物像も大きくぶれまくり、物語が混沌としてしまった。
百鬼丸に「人か鬼か」設定つけた段階で、もうこれは別物。
ここまで変えてしまうんだったら、寧ろ鬼に近かった百鬼丸が、人々と出会うことで人間になっていく物語だった方が違和感が少なかったし、感動できたかもしれない。
でも、これは人に近かった百鬼丸が鬼になって人に戻る話で、寿海たち3人も、自分たちの誰も生かそうとはせず、生き抜こうともせずに死んでしまう。
その為、「人が人として生き抜く」という原作に盛り込まれていたテーマが大きく損なわれてしまっている。
どう考えても、このアニメは、もとのテーマからは大きく外れてしまっていると思いますね。
原作を読んで今作を観ると、おそらく鬼神は土地神で、「どんぶりばら」や「万代」のような事情で誕生したんだろうな、とある程度納得できそうに思えるのですが、一番の謎が百鬼丸が多くの人を殺めると鬼神になってしまうということ。そして、それをやたらと、どろろが口にすること。…よく覚えていませんが、最初に、それを言ったのは琵琶丸だったのかな? だから、どろろは心配しているのかな。
人を多く殺めると鬼神になるのなら、武士や兵士たちは鬼神になってしまうと思うのですが、そうはならないのは、彼らには、百鬼丸のように鬼神の残り火だか、鬼火が魂に混じっていないから?
鬼神は人に祟りをなすのだから、怨霊の一種であることは間違いなさそうですが、じゃあ、生きたまま鬼神になるものがいるのか?ってことが、謎なんです。原作には、そんな人物は登場しなかったので。
原作だと、万代はあやかしとして千年は、とある谷に棲み着いていたので、生き霊だなんてことはないですし・・・。
アニメの方で、琵琶丸がもとは武士だったという設定はあっても構わないけれど、それなら琵琶丸がまだ武士だった頃、生きながらにして鬼神になった人物に遭遇したことがあったとか、実際に戦ったとか、琵琶丸自身が鬼神になりかけたとか、何か琵琶丸やどろろの言う、人を多く殺めると鬼神になるということをリアルに感じさせてくれる物語を、百鬼丸以外のキャラクターで見せて欲しかったと思います。
今作では、原作になかった「人か鬼か」とか百鬼丸の犠牲で醍醐の国が成り立っているという設定が付け加えてありますが、制作者側もこの設定を持て余していたように見えてしまいます。
百鬼丸が鬼神になってしまうと言われるのも、話の中でどういった仕組みでそうなるのか、どうしたら百鬼丸の魂から赤い鬼神の残り火がなくなるのか詳しい説明も描写もないからもやもやします。終盤で明らかになるかと思えばならないですし。
結局最終回で、百鬼丸の魂から赤いものは消えたのでしょうか?
それに、醍醐とは関係のないどろろ 、寿海、琵琶丸までも百鬼丸が身体を取り戻そうとするのを止めようとするのは流石に不自然です。
設定をうまく扱えないなら、はじめからやらない方が良かったんじゃないかなと思います。
ひとつの作品をテキストと考えた時、その読み解き方や感想は人それぞれあって、
いろんな解釈・感想が出てくるのは良いことだと思います。
とはいえ、今回のテーマ「人か鬼か」は「どろろ」という作品とは相性が悪かったと思います。
そして、そのテーマから派生した「どろろ」の台詞も頂けません。
二人が戦っている「戦国の世の中」で第三者である村人や侍、あるいは「敵対者」として描かれる景光、妖怪が「国のために生贄になってくれ」「身体を取り戻して人並みに生きようなどと思うな」
と百鬼丸に言うのであれば理解できるんですが、
一見優しく聞こえても「おいらが側にいるから~」は、「どろろ」というキャラクターには違和感がある台詞だと感じます。
「どろろ」は浮浪児で虐げられており、人間以下の存在として原作では描かれています。
彼女もまた「人並みに生きよう」とすることを阻まれているキャラクターです。
その彼女が「身体を取り戻さなくて良い」と言うのは如何なものか、
原作のどろろは「人並みにならなくても良い(自立しなくても良い)私が側にいるから」
と、共依存を望むような台詞を言うキャラクターではありません。
おっかちゃんが恋しい寂しがりな性格ですが、自立したキャラクターであり、それが彼女の魅力だと思っているので、
テーマの不調和が主人公の一人である彼女の性格を別のものにしてしまい「どろろ」ではない別の作品に仕上がっていると思います。
>>1267
タイトルには一切『どろろ』を含まず、登場人物みんなの名前が違うなら、このままでもそんなにモヤモヤせずに、百鬼丸の身体上の設定が好きなアニメスタッフが「自分たちなら『どろろ』をこんな風にアレンジしますよ! こんな風に描いてみたかったんだ!」と思いながら制作したんだろうなと、諦めがついたと思います。
だけど、これは…なんなんですかね?
クリエイターならば、例え原作者が故人であっても、作者が描いた世界観と人物像は尊重するものと思います。だけどこの作品にはそれがない。
前期のOPとED、物語序盤には、原作と原作者へのリスペクトが感じられましたが回を追うごと薄れて、物語が失速したのは、やはり制作者側が「人か鬼か」を上手く作品として昇華できなかったからだと思います。
「人か鬼か」に拘った所為で物語後半では、多宝丸とその腹心はまだ分かるとしても、果ては縫の方、寿海、どろろまで、人のふりをした鬼みたいな言動をとる、わけのわからないキャラクターになってしまいました。
主人公が正義と悪の境界にいるという流行だか趣味に乗っかって、よし「人か鬼か」だ! 鬼畜、外道、生存競争、情念、これこそが『どろろ』の世界だ!! 百鬼丸からは何でも奪って不幸にしておけば『どろろ』になるだろう!!
・・・そんなノリで作られたようにしか思えません。
因果応報を意識して制作されたと言うけれど、寿海たちにしたって、無理矢理死なせただけにしか見えません。百鬼丸に情けを掛けられ、生き延びた多宝丸が急に重体化したのも、わけが分かりません。
因果応報なら景光が受けるべきなのに、体中から血を流してはいるものの、百鬼丸には「人として生きろ!」と菩薩像を渡されて、生きているのか死んだんだか分からないラストだったし・・・。何がしたかったのか分かりません。
テーマそのものを大きく変えてしまうのなら、タイトルに『どろろ』を入れる必要性は全く感じませんね。
原作を超えられないなら、アニメでは原作のテーマをしっかり読み取って、原作では途切れ途切れになってしまった場面の繋がりを良くして、原作のラストの続きを描くことに専念して、作品を世に送り出していただきたかったです。
「妖怪に奪われた生身の体を一つ一つ取り戻す、という「どろろ」のストーリーの骨子を流用してファミコン漫画のシナリオを書いたら単行本が250万部も売れた。
(中略)
「どろろ」のリメイクを試みている、他にも同じことを考えている漫画家を何人か知っている。
しかし、僕のファミコン漫画を含めて「どろろ」は越えられない、
複製は複製でしかない。
オリジナルとしての手塚治虫に及びようがないことを引用者である僕は知っている。」
上記の大塚英志氏の言葉をこの新アニメは証明しただけだったなと思います。
昔のどろろのアニメのイメージが頭にあって、百鬼丸が前半ほとんど存在感なく、どろろがでしゃざりでウザくて、このアニメ失敗だなーって思ってたけど、よーく考えたら、タイトルどろろだし、今回はどろろ視点で作ってるのかな?て思って見方切り替えたら面白くなった!
ゲーム版「どろろ」も、百鬼丸が光の子だった為、魔物に狙われ、魔物はその父である醍醐景光を誑かし、良き領主であった景光は国を良くするならと我が子を差し出し……
という設定でした。
ただ、ゲームは徹底的に「ヒーローズ・ジャーニー(貴種流離譚)」として成立させようとしているので、今作のような違和感はありません。ややネタバレになりますが、ゲームの最後はドラゴンを倒して姫の獲得で、王道のヒーローズ・ジャーニーです。
ゲームであり、北米版のリリースも予定されていた為、いろいろ制限がある中での改変と思いますが、その思い切りの良さで、この改変は成功した様に思います。
今回の新アニメは「醍醐家の御家騒動」「百鬼丸の成長」「ヒーローズ・ジャーニー」と、多くのストーリーラインがある様に見え、煩雑な印象は拭えません。結果、どのラインも中途半端に終わってしまいました。
「どろろ」として考えなければ、ひどいところもあるが、そこそこ良いところもある「凡作」という印象です。
過去の名作のリメイクなので、いろいろ「よくばりセット」になったのでしょうか?
今作の百鬼丸が特別な子なので鬼神が狙った、という設定も余分だったなと思います。
>>1275
いろいろ「よくばりセット」、それずーーーーっと思っていました。>>1274
を拝見するまでゲーム版どろろの詳細は知りませんでしたが、今作は過去の原作者以外の漫画作品やアニメからの引用ネタみたいなのが多いなぁと感じていました。以前どなたかのコメントに、今作は “浄瑠璃 百鬼丸” の翻案ではないかという指摘があり類似点を挙げてらしたので、なるほど!と思っていたのですが再び、こちらでも ふむふむ・・・と。
全く他作品から影響なく創作するなんてことは出来ないと思いますし、どこか似てしまうのは仕方ないことだとは思います。しかし、面白そうなネタをどんどんつぎこめば大風呂敷になって畳めなくなって、突然メインキャラクターが死んでしまったり、主人公がふらりと旅に出てしまう…というのは昔から良くあるパターンなんで、このアニメもそのパターンだったなぁと思います。
原作でも百鬼丸はどろろを残して去ってしまうけれど、女の子であると知っている以上は、どろろを危険な旅に連れ歩けないことや、どろろには女性として幸せになって欲しいこと、父親の意志を引き継いで、農民として権力と戦い抜け(これは恐らく、どろろの母 お自夜の願いでもあったはず)と、メッセージを残して去っていきます。打ち切り同然だったというのは原作者が認めていますが、それでも物語を通して読めば、作者が描きたかったテーマは伝わって来るように思えました。
琵琶法師が以前、百鬼丸に残した言葉からも、原作が打ち切りにならなければ、おそらくは百鬼丸は体を完全に取り戻し、(連載が続いていても、一旦は別れることになったのかもしれませんが)いずれは「どろろとしあわせの国を作っていくことになっていた」んだろうな、と推測しています。
そのことを史実と絡めて考えるならば、景光が仕える富樫政親ゆかりの地 加賀は、織田信長に敗れるまでの90年間、「百姓の持ちたる国」と呼ばれたとあるのですから、どろろと百鬼丸たちが築く「しあわせの国」、そんなラストが考えられていたんじゃないかな、と。
世代が代わって、織田信長の時代まで描く構想が手塚先生にはあったのか、それは分かりませんが百鬼丸とどろろの努力が実を結び、流れ者だった二人が安住の地を作り上げるというのを見たかったので、そこをアニメで見たかった気がしますね。
>>1275
原作は水木しげる先生の妖怪漫画や白土三平先生のカムイ伝の影響が指摘されることがあり、そんな噂をまだ知らなかった頃、初めて原作を読んだときは背景のタッチが水木先生っぽいなぁとか、カムイを読むようになってからは、百鬼丸の髪の毛が白土三平っぽいな、一揆もあるし…とか、体が不完全で両親に川へ流される百鬼丸の原点って恐らく記紀のヒルコだよな、と思ったりしていました。
それでも、ストーリーそのものが独創的だったし、百鬼丸もどろろも、ゲストキャラも魅力的だったので、誰々の真似だって感じはなかったです。
ばんもんは、原作を読んだ当初はベルリンの壁がモデルなんだろうとは思っていましたが、父親に愛されている弟を兄が殺めてしまうというのは、後年「カインとアベル」がモチーフだったのでは?と思い、ベルリンの壁が崩壊するよりも前に民衆が喜び沸き返る様を描かれていたというのが衝撃的です。
原作者の手塚先生が、もしもカインを百鬼丸に擬えたのだとしたら、こちらのカインは嫉妬心からではなく戦国の世情に巻き込まれて弟を殺めてしまうのだし、殺める瞬間の直前まで弟を弟だとは知らない、そこが切ない。何よりもベルリンの壁にカインとアベルをぶつけてくるだなんて、醍醐家の人々の邂逅と、戦で分断された村人たちの再会が平行して物語が進められて行くだなんて、こんな壮大なネタを一体、誰が思いつくのかと、唯々、驚嘆と感服しかない。
だから、今作は原作の名場面を根こそぎカットしてまで、作るほどのものだったのかなと思ってしまいます。他作品のネタの寄せ集めみたいになって中途半端になってしまった今作はキメラのようで、アニメ本編そのものが「鵺の巻」ってイメージです。
関西の恵比寿さまを祀った神社に「葦船で流された蛭子神が流れ着き、成人して祀られた」という縁起が伝えられている神社があります。
流れ着いた土地できちんと成人された、という謂れが珍しいなと思ったのを覚えています。
手塚先生もその神社の縁起にインスパイアされたのかもしれませんね、
大阪のご出身ですし、
水木先生、白土先生の原作「どろろ」への影響は夏目房之介先生が「手塚治虫の冒険」第五講・60年代手塚マンガの変容「どろろ」で詳しく言及されておりますので、興味がおありでしたらおすすめです。
私見、個人の感想ですが、
どろろのキャラクター改変も、まぁアレなんですが、寿海と百鬼丸も改悪と言って良い改変をされていると思います。
原作では浮浪児である「どろろ」の「賢者」の役割を百鬼丸が担っています。
「賢者・メンター」とは、主人公に見知らぬ世界と直面するための準備をさせるキャラクターで、案内や手引き、アドバイス、魔法のアイテムなどの手助けとなる道標を主人公に提供します。百鬼丸の場合は「寿海・法師・みお」が「賢者」です。
百鬼丸は、どろろが旅立つきっかけを作り、「おまえはえらいよ」と、どろろを認め、看病し、泥棒働きをするどろろにお説教をし…、
物語の中で「どろろ」に対して「賢者・助手」としての役割を果たしています。
手塚先生の世代の方は戦中、戦後を経験されて、そのころは浮浪児も戦争で四肢を欠損された方も多くいた時代でした、浮浪児や四肢を欠損された方への差別は今の時代で想像するよりもっと過酷なもので、昭和の初めまで眼鏡をかけていることも差別の対象になったそうです。
戦乱の世で、人として扱われていない「どろろ」を人として扱うことが出来る。
そんなキャラクターが「百鬼丸」です。
人は自分がしてもらったこと、されたことをなぞります。
悪い意味では、虐待を受けた子供が成長して虐待を行ってしまう虐待の連鎖がそれです。
「百鬼丸」の行動を見ていると「寿海」がどのような人であるのか?
は、想像がつきます。
戦乱の世で人として扱われない人・親に捨てられた子供にも愛情を注ぐことのできる自立した大人です。
なので、
彼が育て上げた「百鬼丸」は旅立ち、妖怪と戦うことが出来たのです。
今回の新アニメでの彼は「どろろ」の「賢者・助手」の役割を担っていません。
今回のキャラクター改変はテーマ改変とともに、この新作アニメの土台がぐらつき、結局、中途半端な作品となった理由だと感じます。
法師も「賢者」から「語り部」にキャラクター改変されていますが、ここまで原型をとどめていないのなら、「どろろ」を翻案した別作品で良かったのではないかと考えます。
他には楽しめた作品があったので、このアニメを手掛けた監督さんと脚本家さんの全作品を否定する訳ではないですが、手塚作品とは相性が悪かったのではないかと思います。
結局のところ、手塚先生の話は母の慈愛と養父の博愛がベースになっている物語が多い。実の父親が息子に優しく出来ないケースでも父性の欠片が残っていて、愛情を完全には捨て切れず、本当の鬼にはなり切れないケースも多いです。
冷血漢にも人間らしさが何処かに残っているんです。
何しろ原作では暴君だった、あの景光ですら、多宝丸を失うまでは百鬼丸に愛情が残っていたのですから。再会した際には、百鬼丸が生きていたことで激怒したり逆恨みをすることは一切なく、ただ動揺し、心を痛めていたのです。
だけど、このアニメの景光は、あっさりと我が子 百鬼丸に対して鬼になってしまう。けれど、領民には至れり尽くせりで愛情を示す。わけが分かりません!
今作の景光にとって妻 縫の方は世継ぎを産む道具で、多宝丸は自分の分身として扱い、最後は、ともに醍醐の地を守る鬼神になろうと目論む。外面ばかりが良い今作の景光は、原作より腹黒でねじれた人格になってしまったと思います。そして拙いことに、まだ大物になるなら良いけれど、ただ家族に八つ当たりして、わめき散らすだけの小物になってしまった。
寿海と縫の方も自殺未遂の末に、我が子 百鬼丸の前で心中するし、この人たちは、「救えぬ!」と言い放った百鬼丸のことは、何故か自分たちが死んでみせることで救った気になっているし、今度は多宝丸を救いません。
あんなボウボウに燃えている城でチンタラしていなければ、百鬼丸も多宝丸も救えたと思います。さっさと二人を担ぐなりして抜け道に避難すれば良かったのに。
自分たちが死にたくて、でも、百鬼丸には自分たちの愛情を示したくて、わざわざ会いに来て、死ぬ。わけが分かりません!! この二人だけではなく、このアニメが伝えたいことが何なのか、全く分かりません。
「良い子にしてないと鬼になるよ」だの、「親がまだそれほど年を取っているわけでもないのに死にたがりで、子どもの前で死んでしまう」って、こんなの観てスカッとする人っていますかね? アニメは、わざわざ改変までして、どうしてこんな話しにしたんでしょう?
子どもに向かって、「良い子にしてないと鬼になるよ」という人は現代なら、旦那がDV夫で育児ノイローゼの奥さんとか、仕事が上手く行かなくて奥さんや子どもに当たり散らすDV親爺か、未認可の保育所でこき使われている保育士とか? もしくは自分自身がそんな家庭で育ったか、思いっきり甘やかされて我が儘に育ったから、子どもの愛し方が分からず子を脅すのかと思います。
それと、高齢の親の介護に疲れている人なら、親は長生きするよりも「お前をいつまでも愛していますよ」なんて言いながら、年取る前にこの世から消えてくれれば、綺麗な思い出になって残るのに、なんて思うのかもしれない。
そういう人に向けて作られたのか、本当は子どもも親も好きじゃないから、こんな話しか作れなかったのかと思えてしまいます。そのぐらい、わけの分からない話だった。他にもっと描くべきことはあったでしょうに。絵を幾ら綺麗にしたって、やっていることがちっとも綺麗じゃないから、嘘っぽく芝居掛かって見えます。
「鬼か人か」が本当は百鬼丸のことではなく、寿海、縫の方、景光を指していたのなら、成功と言えると思います。私はこの展開が全く好きになれませんでしたが。
ゲームからどろろを知ったんだけど、個人的にストーリー性は断然ゲームの方がいい。
アニメも見たけど多宝丸のキャラがちょっと残念だった。
>>1284
アニメの多宝丸って、もしも景光が鬼神と取引をせずに百鬼丸が領主の息子として生まれていたらという、もう一人の百鬼丸みたいな描かれ方をされていたし、グラつき易くく芯が強いとは言い難かったんで、魅力が足りなかった。
個人的に、いっそのこと多宝丸は、もっと大胆に設定を変えて、男性として育てられた時期領主として登場して欲しかったな。
そして、その偽りの人生に満足していなくて、両親に不信感があるから、お忍びで本来の世継ぎの自分の兄を捜しているとか。(その場合、お供の陸奥は女性である必要は全くないので、男性にして欲しい。)あそこまで百鬼丸の影が薄いんだったら、多宝丸がその旅路で百鬼丸に出会うというのも有りだったんじゃないかなと。
陸奥が男装の女性っていうのよりも、多宝丸が時期領主として育てられた男装の女性の方が面白かったと思ってる。そもそも、陸奥が女性というネタ、多宝丸とロマンスがあるわけでも何でもなく、特に生かし切れていなかったし…。
だったら、ここは手塚治虫のオマージュとして、世継ぎとして生まれ、王子として育てられたリボンの騎士のサファイアみたいな、多宝丸を見てみたかったなぁ。
その方が百鬼丸に屈折した感情を抱く理由がハッキリしていて面白いし、寧ろ百鬼丸に歪んだ憧れとか、愛情を持ったり、どろろに共感したりとか、いろいろドラマチックになったんじゃなかろうか。
このアニメが好きなれなかった理由は、中学受験を控えた息子を実の父親が包丁で刺し殺してしまった名古屋教育虐待事件や、結婚相手の女性をDVで支配し、その連れ子である女児を血の繋がりのない父親が虐待の末に死なせてしまった目黒女児虐待事件のニュースを知ったときのように、後味の悪い嫌な気持ちになったからだ。
このアニメに出てくる大人は自分を正当化する卑怯者ばかりだし、児童虐待&DV親爺の権化の景光を賛美したり支持するような人間ばかりで、見ていて本当に嫌な気持ちになった。そして、アニメの制作スタッフが必死になって景光を善人みたいに演出しまくることに、ほとほと嫌悪感を覚えた。百鬼丸の支えであって欲しい縫の方も、寿海も、琵琶丸も、どろろも、みんな物語の後半からは、百鬼丸に我慢しろ、耐えろという態度だったので本当に嫌だった。
百鬼丸に何もしてあげられないのなら、簡単に耐えろとか言わないで欲しいし、救えぬだとか、存在したり意志や目的を持つことそのものが悪であるかのように、責めたりすることを止めて欲しかった。
人間って、こんなに醜く卑怯者ばかりなんだろうか? 百鬼丸の味方側にいた人たちは、本当のところ何も百鬼丸を助けてはいない。どろろは唯、そばでオロオロしていただけだし、琵琶丸も、もったいぶって深みがあるようなことを言っていただけで、百鬼丸が鬼神になるだなんだと、どろろに不安を与えて後のことは全部まだ幼いどろろに丸投げだったし、ミオたちのことだって、戦が間近な情勢が不安定なときだからこそ、まだ幼いみんなのそばにもう少しだけでもいてあげれば良かったのに、さっさといなくなるし、孤児たちに希望を与えるだけ与えて後のことは全部丸投げだった。
寿海は百鬼丸に生きる術とチャンスを与えたけれど、百鬼丸を旅立たせた後は特に何もしていない。ただ自分が心残すことなく死ねる機会を探していただけだ。最期に菩薩像を百鬼丸に与えたが、その頃の百鬼丸には、もう必要なかったから直ぐに手放していることからも、この行為は寿海のパフォーマンスや自己満足に見えて虚しい。
百鬼丸が助かったのは、百鬼丸が鬼神のように異様に強かったから、それだけだ。本周りにいた大人たちも、どろろも祈っていただけだ。
この物語の登場人物たちは、流されて生きているだけで無力な人たちばかりだった。そんなだから、何も面白くなく感動も出来なかった。
>>1287
1287のコメント、全く意味不明。
なんで、虐待やDVをファンタジーにすり替える?
1287が、どっぷり なろうにハマって
頭の中がファンタジーなんで
こんなことしか書けないんだろうよ。
鬼神の魔力を借りないと、国を豊かに出来ないみたいなテーマに塗り替えられてる
そうじゃないだろ
この新アニメは「鬼」をどのように定義して製作されたのでしょうか、
「鬼」と一言に言うのは、多くの多様化した概念をもつ言葉なので難しいですが、
その一つに「国家や集団の外部にいるまつろわぬ者たちが鬼とされた」というのがあります。
不具である百鬼丸も浮浪児のどろろも集団の外にいる者たちです、そして作中では生きることを否定されています。
「おいらだって人間だ」と彼らが必死で生きるために抗い、戦っていく、原作はそんな物語です。
つまり「鬼から人へ」の戦いです。
あの原作が「人か鬼か」というテーマになってしまうのは、やはりいただけません。
楳図かずお先生が、
(映画版「漂流教室」は)お金はかかってたんだけど、目線が外れてますので、そういうのが一番危ないんですよ(笑)
と仰っていましたが、
ホントだな、と思います。
>>1294
全くの私見ですが、アニメでは「鬼神=荒ぶる神、荒魂」というイメージがあったのでは。
アニメのコンセプトに「鬼か人か」とあるのは、百鬼丸を原作通りの霊感が鋭くテレパシーが使える超能力者として描くことよりも、そこから更に進めて「鬼神=荒ぶる神=荒魂を宿す者」という超自然的な存在として描こうとしていたのでは。
時代こそは神代からずっと下がった中世の室町時代ではあるけれど、アニメでは百鬼丸に鬼神の力を与えることで『記紀の英雄譚のように、百鬼丸を大国主命やスサノオノミコトのように描きたかったのかなと。
平たく言うと、このアニメからは原作の『どろろ』に永井豪先生の『凄ノ王』や諸星大二郎先生の『暗黒神話』のテイストを取り入れた、そんな雰囲気が感じられた。…室町時代で神話を、神代から人の世への世代交代を描いた様にも感じた。
《荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされる一方、崇神天皇の御代には大物主神の荒魂が災いを引き起こし、疫病によって多数の死者を出している。これに対し、和魂は神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の妙用とされている。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮、豊受大神宮の多賀宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は荒魂と和魂を支えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。~ウィキペディア “荒魂・和魂” より~》
百鬼丸が鬼神化して荒魂でもって醍醐の地を破壊すことで、その地に根付いた鬼神と武士たち支配者層を追い払い、百姓たち平民は自らの手で新しい国を作り上げ、一方では未だ魂が不完全な百鬼丸は和魂を得るべく放浪の旅に出る…と、そんな感じかと。
狙いそのものは悪くはなかったけれど、人物像の掘り下げや物語の進め方に難があり、ヒューマニズムが薄れてしまったため手塚先生らしさが感じられず、主人公が悪と正義の境界にいるというのが永井&石ノ森先生っぽくて、他作品との合作みたいになってしまったことが残念…。
このアニメでは、ミオは侍たちの慰み者になるだけでは留まらず、ついには間者の疑惑を掛けられ、彼女が取った行動が引き金になって、孤児たちが巻き込まれて命を落とす・・・というような流れになっている。
どろろの母お自夜のかの有名なお粥シーンでは、お自夜の我が子どろろを救いたいという母親の純粋な愛と強さを示すシーンが、原作にはなかったイタチの登場でなんとも後味の悪い嫌な雰囲気になってしまったし、その上、お自夜は亡くなった後もイタチからは墓を荒らされてしまう。
そして縫の方はというと、母と言うよりも世間知らずの姫様で、やっと神仏にすがることを止めて自ら行動を取るようになり、領民に目を向け、息子たちにも真正面から心を通わせるようになったのかと思ったら、息子二人が今にも刃を交えようとしている場面に居合わせておきながら何も言えなかったり、今度こそ息子たちと心を通わせたのかと思ったら、あっさりあの世へと旅立ってしまう。
そして、どろろのあの切ない、別れのシーンは、通り掛かりの一話こっきりの尼さんの暴露で根こそぎカット。
白面不動の死霊の女のエピソードの改変。
チョロッとしか出てこない、まいまいおんばの妖艶な奥方姿。
数々の改変は脚本家さんが女嫌いだとしか思えず、『どろろ』を観ているというよりも、脚本家さんの女性観をみせられているようだったので、物語の展開よりも、どういう気持ちで脚本を書いているのか、そのことが気になってあまり楽しめなかった。女嫌いで特に母親の愛にうさんくささを感じているのだろうか、幼女よりも大人になり掛けた少女、その少女よりも更に母親が嫌いなんだろうかと、お自夜と縫の方の人物像の描き方を観ていて思えてしまった。
アニメ版のどろろは、序盤の脚本のベースを書き上げたのが監督さん(第1話、第2話)で、その後は監督さん自らがメインライターさんにストーリー制作をまかせたという。
縫の方の性格が激しく変わってしまったり、男性の寿海が父性よりも母性が強い人物になってしまったのは、母親を描くことに脚本家さんが抵抗があったんじゃないだろうかと、そんな風に物語り以前のことが気になってしまいアニメ本編がなかなか楽しめなかった。
次があるなら男性の作家さんに脚本を書いて欲しい。
>>1298
と書いている本人が、最後まで見たかどうかなんて
到底分からない、中味のないコメントを書くのは何故?
実際には作品を見ていないから中味のないことを
書いたのか、
最後まで見たものの、このアニメに中味が感じられず
心の中に何も残らなかったから
コメントも中味がないのか。
作品の出来不出来は端からどうでも良くて、
誰でも良いから、ただ批判したかっただけなのか。
批判するならするで、中味のあるコメントを
書いたらいいのに。
原作未読の方にはネタバレになりますが、原作コミックスでは、領民たちの一揆を境に醍醐屋敷で別れた百鬼丸とどろろのその後が描かれていない。
百鬼丸は魔神から完全に体を取り戻すことが出来たのか? どろろの父 火袋の財宝は何処へ? 百鬼丸とどろろの再会は?
当時の漫画制作の状況が分からずとも、「これって打ち切りなのでは?」と思った読者は多いのでは。…かくいう自分がそう。
原作コミックスのラストでは、百鬼丸のその後を知るものは誰もおらず、48体の魔神像は地獄堂とともに50年後に戦火で消失とある。
そのまま受け取ると、どろろと百鬼丸は再会することはなかったということになるし、百鬼丸が体を全て取り戻せたとしても還暦はとうに過ぎていて、今ならまだしも人生50年だった当時を考えると、百鬼丸はこの頃には老人で最後の魔神とは相打ちで命を落とした(そして、地獄堂もろとも魔神が消えた)のでは、などと思えてしまう。
原作のどろろと百鬼丸のラストは、互いを思いやっての別れが描かれていて切なく、自分を捨てた両親を憎み切れず、思慕の念を捨てることが出来ない百鬼丸の姿が丁寧に描かれていて、全編には無常感や寂しさの中にも人の心の優しさが漂っている。結末が描かれていない寂しさはあるが余韻が残り、それだけにアニメには期待していた。
アニメでは火袋の財宝の行方とその後、(例え不完全だとしても)百鬼丸とその父母の和解、百鬼丸とどろろの再会の示唆が描かれていて、スルーされなかったことが良かった。
多宝丸が原作のように百鬼丸を一方的に罵るだけではなく、不器用ながらも百鬼丸を兄として受け入れ、一度は堕ちてしまったものの、人として成長しようとする様には心動かされるものがあった。
アニメの何が拙かったかというと、寿海、縫の方、景光の三者の人物像のゆらぎが大きく、百鬼丸、どろろ、多宝丸、琵琶丸が巻き込まれて、それぞれの魅力が生かし切れなかったことだと思う、
寿海に比重を置くのなら、縫の方とキャラクターを被らせる必要は全くなかったし、魔道に堕ちた景光をあそこまで薄っぺらく魅力なくするのではなく、芯というか存在感が欲しかったと思う。揺らいでこそ人なのかもしれないが、キャラクター設定にはもう少し一貫性が欲しかったし、脚本をもう少し練って欲しかったなと思う。

