アニメ『葬送のフリーレン』はおもしろい?つまらない?
そもそもこんな無法地帯の投票サイトで作品のファンの民度なんか測れないし当てにならんやろ
ちゃんとしたファンはもっと別の場所でファンやってる
連投で人を煽り散らかす社会の何の役にも立たないクソゴミガイジが好んで見るアニメ
子供がアンパンマンを見るように、レベルの低い人間はレベルの低いアニメを好んで見る
わぁ放送当時は面白い派が圧倒的だったのに今つまらない派が多いってことは放送後注目度が下がるタイミングでつまらないを毎日押し続けてるきも暇人さんがいるんやな
アニメ1期完走。作画がかなり良かったのとフェルンが可愛いから最後まで見れたけど、肝心のストーリーが微妙だった。
フリーレンって1000年生きてるのに人格形成が年齢に見合わない、悪く言えば精神年齢が低すぎると思う。森にこもる前の、エルフの村や師匠との生活で何も成長できなかったのかな。
フリーレンがヒンメルだけに執着する理由がわからないまま、延々とヒンメルの回想挟まれても「ノリの軽いテンプレイケメンキャラがなんか言ってるな」としか思えない。というか、ヒンメルと同じ10年という時間を過ごしたはずのドワーフや僧侶のことももっと回想しようよ。その二人もヒンメルに劣らないいい人たちっぽいじゃんか。
なんで"人間を知る"ロールモデルがヒンメルだけなの?「ヒンメルならそうする」「ヒンメルならこう言う」…フリーレンはヒンメルの言動を模倣するだけのロボットみたいで不気味だ。
実は子宮が恋に落ちてるの?
それなら理屈じゃないし、すべてに納得できるんだけどさ。
激しいアクションで面白い、ギャグが面白い、奇抜な展開で面白い、ファンタジーが面白い。そういった種類じゃないよね。
何話も見ているうちにノスタルジックな感情がジワっと心に染みてくる感じ、それが面白い。
出会いや別れの人生経験が多い人ほど来るんじゃないだろうか
初放映時の見逃し回を回収
2周目にして全話視聴
原作は知らん
端的に、タフネゴシエイターたり得たか否か
2周目を冷静に試聴し終えて、粗ばかりが浮き彫りになった印象
まずもって、魔王打倒達成の意義、価値が希薄すぎる
七崩賢アウラの討ち漏らしだけでも充分だが、さらにこの後も捲土重来を謀る、逃げ延びた元領袖が話のメインとなってくるようなので、正直よくこれで凱旋したな、としか思えない
初回の、聖都で催された凱旋パーティーでの喧騒と仲間揃って仰ぎ見た流星群の静謐のコントラスト、さらに半世紀もの星霜を経ての再会と再観測の約束
たっぷりの間や溜めを存分に用いて示したそれらの情緒も「こんなスタート、どう?」みたいな、出オチとも言えるこの作品の、羊頭狗肉然としたプロットを象徴するようなシーン、という再定義となった
作風として、日常系、冒険活劇譚、コメディ、シリアスなどのミクスチャーである事に1周目はそれほど違和感は無かったのだが、改めて見るとその欲張ったジャンル要素ゆえに、ここぞの劇伴の壮大さとは裏腹に、器用貧乏な小さく纏まった感が漂う
この点で薬屋のひとりごととよく似ている
監督の大事にした「隙のある作品であること」という狙いも重々承知しているが、この作品に「人間とは?」という基本テーマを持たせる事に、どうしてもオーバードライブの重責感がつきまとう
比重的に日常系、空気系の要素がかなり大きいが、そこで用いる崩し絵的作画や、ぬるい台詞、演技、雰囲気の演出がきらら系そのものであり、さらにハの字目のトホホ感やら幼児化演出は、ゆるキャン△そのものにしか見えない
フリーレンが麻呂眉なので尚更そう感じさせる
フリーレン一行が北部での越冬のために身を寄せた山小屋で、初対面のクラフトが小屋の中でスクワットしていたのを見るや、フェルンに「変態がいます!」だのと言わせていたけど、そういうセリフに触れると、やっぱり普遍的な作品にする気概なんて無いんだなぁ、と
その物言いや言葉の選択、イントネーション、興じ方は、「現代の日本の中学生、高校生」らのクラス内で醸される成熟度であり、軽薄な言葉遊びそのものであって、命のやり取りをしている輩の理性、感性から明らかに乖離させた、意図的で雑に過ぎるズラシの姑息さには、溜息しか出ない
そんな箇所でのつまらない点数稼ぎなんて求めてない
寒いんだから死なないために運動して体を温めているなんて、誰が見ても明白な場面
デカい話をしてるんだ!と大風呂敷を広げながら、「今の日本の芸人」のテンプレリアションに始終する作風
それだけでなく、コメディでない場面、例えば、別れも近くなったザインに何故自分を誘ったのかと問われて、フリーレンの発した「同族嫌悪かな…」
ヒンメルらと家宝の包丁を取り返してあげた料理屋の店主の、将来も変わらぬと豪語する自慢の味への自負に、フリーレンの呟いた「そう言って自分の爪痕を残そうとして料理人は味を変える…」
同族嫌悪、爪痕を残す…これらは時の経過に耐えるだけの普遍性のある言葉だろうかと、引っ掛かるものはある
どちらもやや語感重視のチャラさ、大人は恥ずかしくて使えない書生的弄語感は否定できない
アニメ化に際してサンデー編集部が製作側に願い出た、長く愛される作品にして欲しいという言が真意ならば、これらの、時の風化に抗えなさそうな時限的ニュアンスへの依存の常態は、やや言行不一致に映る
それなら連載時に訂正してやればいいのに、と
時代に迎合した安い言葉を使った作品は陳腐化する
それは作品全体に用いる雰囲気においても同じ
古臭いな、と切り捨てられる
コミックリリーフに徹した場面でも、気の利いた事今言ってます的な静謐な場面でも、争えない幼さが徹頭徹尾醸されている
それがベーシックラインなのに、「今フリーレンは人の普遍性に触れて学習しています!」という、ホントに大事にしてるのか怪しくなってきた今作のお題目のシーンが、否定は許さんという絶対王政の劇伴で強要される
ただ、その内容も新聞の購読者投稿欄にあるようなチョットイイハナシダナーくらいの内容で、更にはやや強引な割り込ませ方になってきた印象さえある
義務感疲れが見える
おまけにヒンメルの芯を食った発言、というお約束の回想シーンでは、ヒンメル自身が甘ったるい声音で遠い目をして自己陶酔し、これが真理でなきゃ何が真理だ?くらいの不文律で啓示がなされる
2周目にこれを繰り返されるとキツさしかなかった
そもそもがきらら系が背伸びしたくらいの成熟度なのに、木に竹を接いだように劇伴過剰な臭すぎる演出のサクラメントが度々供されるので違和感しかない
「人間とは?」と問う時に、教条主義的な服従を強いるが如き演出がなされる今作は、他者の意図に唯々諾々たれと強要している体に映り、それは神中心のルネサンス以前へと退行しているのと近しく、考えさせるでなく、程度の差こそあれ結局は一問一答的に答えを提示し過ぎてしまうジャパンエンタメの、悪い意味での和をもって尊しとなす、という宿痾の顕在性が浮き彫りとなって、やはりここも通常運転モードかと、そう思わずにはいられない
つい今し方まで、だりぃだなんだと駄弁ってたかと思えば、「畏れ多くもォー!…」と枕詞を叫ばれて、最敬礼の雰囲気でピリつく、かのよう
平たく言えば、無理のあるガッチャンコ、ということ
個人的には、担当編集の当初の薦めを受け入れて、暫定的に読み切り短編で仕上げたコメディ作風に徹した方が身の丈に合って良かったのでは?と思う
これは貶しているのではなくて、台詞の掛け合いや間の良さに悪くないものがありながら、連載の安定した長期化を目論むが故の、既存の王道路線踏襲、テンプレなぞりで、その作家の良点を曇らせて、駄作に導く例が多く目に付くから
角を矯めて牛を殺す例が増えている気がする
旧市街の入り組んだ隘路を縫い走るのに取り回しの良い軽自動車がそもそものコンセプトだったのに、いつの間にかGT-RやLFAのようなハイパフォーマンスカーに仕立てられ掛けている、そんな無謀に映る
それはアニメ化に際しての製作委員会の製作企図やら、実制作でのこれでもかの感動無比の無謬性強要の過剰演出やら、放送に先立って幅広いクラスタに撒き散らされた哲学作品であるかのようなハイパーインフレプロモーション、それらによってである
学生くらいまでなら額面通りに受け取ってくれた人も多かったかもしれないが、それより上の層は「そんなか?」が大多数だったかと思う
なんなら、広告宣伝費が嵩み過ぎたせいか、作画やエフェクトに関しては思ってたより雑、の印象さえ受ける
ストーリーに関して言えば、一級魔法使い認定試験のくだりから、もはや開き直ったナーロッパ準拠の潔さ
そして、もともとその気配はあったものの、このタームの隕鉄鳥捕獲という一次試験のスタート以降、細部の辻褄が破綻してくる
前回放送で定義されたのとは違う事が次回には当たり前となる事が頻出、あまつさえその回の話の中でさえ前段の設定が無かったかのような無理矢理展開までなされる自由奔放さ
アニメ制作陣は制作段階で「これ、おかしいよね?」の連続だったのでは?
気付かなかった訳が無いので、論理的矛盾そのままに押し通したんだろうから、敢えてのノータッチだったと思われ
原作改変ナーバス意識最高潮時の時勢ゆえか
同じく日テレと小学館だし
まぁ実写とアニメじゃかなり違うだろうし、セク田案件の膾炙は時系列的に先行するとは言え、今作放送とほぼ同時期ゆえ、結び付けるのも無理があるかとは思うが
それらの「いや、前はこう言ってたじゃん…」とか、「いや、ちょっと前に普通に出来てた事がなんで出来ない設定になってんの?」ということばかり出てくるので、会うたびに違う事を言う人のようで、見ていて眉を顰める事ばかりだし、不信感ばかりが募る憤りを強く抱かされる
例えば、一次試験スタート後にフリーレン組が隕鉄鳥を捜索して歩き回った後、湖上にいた鳥と初遭遇した際に、カンネが何の前準備もなく湖水を旋回、上昇させていたが、その次回放送辺りでは、一定量の水を操るためには事前に動かしたい水に魔力を込めておかないといけない、だのと、持っていきたいストーリー展開のための後出し設定が突然出て来る
非論理的なこと以外でも、やれ狩猟民族の魔法使いが用いてきた、鳥を捕まえる魔法の有効範囲が50cm以内だとか、ホントにチマチマした、現実の児童らが遊びの中で適当に作るような設定を、そのまま躊躇いもなく放り込んで来るテキトーさ
わかってるよ、もちろん
イヤ、狩猟民族で50cmて…っていう「隙」は
ただ、シビアな試験でもあるのに、チマチマしたツッコミ待ちの小ネタ入れて、しかもマジとも笑いとも採れない微妙な雰囲気のままに話を流し進めるって、どういう狙いなの?と
ノーリアクションだったじゃん、そこに関して誰も
デカい話も碌に出来ず、ダメかなぁと思い掛けている時に、ダメ押しで細部もグダグダという両崩れ
凡百至極のなろうクオリティ化
むしろ粗製濫造のなろう作品の方がフリーレンよりも余程整合性あるものが多いとさえ思う
それくらい酷い
東宝と日テレに特別に下駄を履かせてもらって、行間を意識したたっぷりとした間と、目や口元などをクローズアップさせての微動なニュアンス提示で、心理の波紋を丁寧に掬い取る演出など、ホントに分不相応に恵まれた作品かと思うが、作者が幾ら設定厨でないとは言え、あまりにおざなり、不誠実な投げっぱ設定のオンパレードで、辻褄を合わせる意図も全く感じられない
おまけにデカい話が本命です、みたいな保険はずっと掛けているのに、そのグランドデザインさえまともに提示出来ていないし、この先も期待出来ない
ふわふわしたおとぎ話感だけが遠景で漂っているだけで、近景では周到な伏線敷設も殆ど出来ず、ミステリ要素に入れもせずに、目の前の苦し紛れの辻褄合わせに四苦八苦する
しかもそれが、整合性を持ち得ていない
泥縄の自転車操業作品に、いい大人を納得させる何かがあるとはとても思えない
あるのは、製委により決定された、撤回は許されない壮大な人間ドラマ路線貫徹のための、御無体な、誠心誠意を尽くしたフォローアップ体制堅持すべし、と言う勅命のみ
これがギャグものなら、そのテキトー設定やらチマチマ感が良い方向に解釈されるのに、本質的には程度の低いなんちゃってである事を見透かされているのに、とにかくガワだけは角川春樹みたいな大河ロマン、大叙事詩路線に拘泥しているから、悪い意味で滑稽に映る
ゆるキャン△ポンコツクエスト編にしか見えないのに
原作者にそれ以上を期待出来ない
ドラえもんやちびまる子ちゃんみたいに、中身が薄い時は1回に2話、少し濃くするなら1回1話で、得意のしょーもな魔法を話のネタに、1話完結コメディの体で良かっんじゃないかと
それで色々と、チマチマした魔法のエピソードやら人物相関の醸成が果たされて、原作者に、人や組織を見る目や構想する力量が備わった後に、大長編ドラえもんやクレしん劇場版みたいに、社会性、テーマ性のある、普遍的でちょっと真面目なものも提示してみる、みたいな形で良かったんじゃないのかな、と
今の原作者はそこまで至ってないと感じる
だいたいヒンメルくらいの年齢の男子が自己陶酔してキラーフレーズかませば、なんかちょっとマウント取れて周りがステキって思ってくれるんじゃないか、なんて期待しながら自演してる気持ち悪さを、なんかカッコイイと解釈して作品の1シーンとして成立してると思ってる時点で、原作者がそういう認識の人なんだから
これだってギャグものなら成立してるのになぁ、と
多少大きなイベントが一段落する毎に、フェルンに臍を曲げさせてプンスカさせ、それをフリーレンとシュタルクが宥めすかすというコメディパートを入れる事で、箸休めとして緩急をつけるというスタイルに頼り切った構成だけど、これもコメディ貫徹ならまぁ許容範囲だけど、人間描きますと大言壮語した作品のシーンとして解釈すると、事ある毎に駄々を捏ねて腫れ物扱いされる事に快楽を感じつつ自分の要求を飲ませ続ける、しょんべん臭いのにやけに政治的な女を見続けていると、許せていた可愛らしさも次第に無くなり、むしろ嫌悪感がどんどん強くなってくる
挙句、一次と二次試験の間のインタールード回ではAパートとBパート両方使って、時系列的には2日連続という体で、さらにはそれぞれが違う激オコ案件で、十八番のプンスコからの「ポケットマネーで食い物買って機嫌取りやがれ」誘導のテンプレだったので、コメディパートのバリエーションの乏しさも悪目立ちした
制作は「この天丼、どうよ?」みたいな、してやったりのノリだったんだろうが、見飽きて不愉快になっていたパターン化だったので食傷と辟易しかなかった
ネット上でヘイト意見が目立っていたのも、この構成ならば道理か、と
本人にも自覚があると思うが、市ノ瀬加那の演技は情緒に乏しいものとなる事が、担当する作品によっては顕在化する事がままあるので、彼女の欠点である一律な抑揚頼みの棒演技感が、今回の低体温系の我儘キャラ、自分に甘く他人には厳しい人格設定と合わさると、受け手によっては否定できない嫌悪感となり得る
北海道出身ゆえ共通語のイントネーションを掴みづらいハンデはあるだろうが、もう新人でもないしなぁ、と
心底から湧き上がる優しさ、みたいなものをいま一歩のところで表現し得ない彼女の演技が、理不尽な生い立ちを余儀なくされたフェルンの、心を開き切らない、他人に懐疑性ありきで関わろうとするトラウマじみたものを抱える自我と、うまくリンクすると判断しての採用だろうし、実際のアフレコでも監督や音響監督は、その良くも悪くもいまいち体温の上がり切らない演技を活かし切ったんだろうとは思うが
現実にこういう人がいるし、自分も家族にその類がいたので、その所業が思い出されて本当に不愉快になったし、他の人も見ていて気分が悪くなるのはよくよく理解する
ダウナー系ギャグ物に徹した作品世界観ならば、最低限常識キャラの立ち位置でのツッコミ担当、それでいて自分の至らなさには目を瞑るダブスタ自己中という設定が、存分に活きる人物造形だとは思うが
そうなると坊主憎けりゃで、三次試験終了後、パン屋での鉢合わせの後に、アフタヌーンティーを共にした席で、フェルンがデンケンに孫がいるのでは?と問うた後に、若い時分に妻と死別して子も孫も居ないと彼に吐露された後も、微塵も悪びれる気配も見せずに延々と塩対応を貫徹する彼女の様に触れて、やっぱり人なんて描く気ないのね、としか思えなかった
戦災孤児になった孤独に散々苛まれたんでしょ?
謝らないまでも、眉を少し動かして視線を落とすくらいはあるんじゃないのかな、と
それでいて同席したシュタルクの至らなさには相変わらずのブンムクレ顔をするので、正直最後の方は見たくもなかったキャラ
これも別に、ギャグ貫徹なら気にならないんだろうが
シリアスとギャグに両掛けして保険とし、のちのち片方の路線の不出来を否定されても「どっちかと言えばこっちだから…」と逃げ口上を周到に用意している姑息さにどこかモヤモヤしたものを抱えさせ続ける作風ゆえ、こういういい加減な心理描写に触れると見ている側の鬱憤が暴発してしまう
さらにそれが高頻度だから、学生以上のクラスタは間欠泉状態だったのでは?と思う
マクロ的視点、作品総体としてのギャグとシリアスのミクスチャーのみならず、1シーン毎の見せ方でも両面の属性を混淆させるから、話の流れでそこはふざけるべきじゃないだろ、というシーンも多々あり、話数ごと、シーン毎の不出来に対する批判への躱し方としても、真面目と不真面目を方便として無理に同居させているように映る
二次試験の最奥部手前、そこに陣取るフリーレンの複製体に対する攻略会議において、フェルンを守り切れなくなるだのとフリーレンに言わせていたのに、フリーレンが魔法発動時に一瞬だが魔力探知が途切れるという自身の欠点に緘黙を決め込み、それを暴くべくフェルンが強行攻撃を敢行、それに対するフリーレンの防御魔法発動により、その欠点が暴露される、というくだりだが、フェルンの「何で言ってくれなかったんですか?」に対してのフリーレンの「だって恥ずかしい…モジモジ」
お約束の崩し絵、ハの字目キャラ化してのゆるキャン演出…
的外れな緩急にしか思えなかった
フェルン死んじゃっても、まぁウィークポイントがバレるよかいいかぁ、って?
確かにこのシーンは必要以上に尺を取って間延びした印象が強かったから、何かしら埋めるものが欲しかったのも解るが、にしても、この後の、なんだかんだで人間の弟子を愛して来たゼーリエの、その気持を口には出さない不器用さにフリーレンが呆れるシーンがあるのに、まぁ死んでもいっか的にも受け取れる、おふざけ演出を入れるチグハグさって何なの?と
弟子が死ぬ可能性が減るの、明らかに理解してんでしょ?
ニュアンス的に、バレてなきゃ黙っとこう感が貫かれていた演出だったし
ここにきらら要るのか?
こういう、腹を決めてキツイ批評だろうが真正面から受け止める、っていう覚悟の無い、常に逃げ腰のスタイル、作風に本当に辟易する
「シリアスだかギャグだか自分達もよく判らないけど、まぁ好きなように採ってよw」という「俺はまだ本気出してないだけw」と何処かニアリーイコールな、半笑いの意気地無し製作姿勢に腹が立って仕方がない
この期に及んで何やっての?と
勝負しろよ!としか思えない
この勝負は、もちろんキャストのフリーレンのことじゃなくて東宝プロデューサーを筆頭とした、製作と制作の全般の、勝負する姿勢のこと
なんだかんだのらりくらりと逃げてばっかりのくせに、ご都合の大作必至プロモーションの自画自賛で、それを見て騙された節穴から泡銭を稼ぐ算段だから見ていて気分が悪い
デンケン言うところの「気に食わない」そのもの
隠しコマンドとしての、贖罪も込めた自嘲の皮肉なのか?
そんなもん要らんからまともに作れとしか思えん
ここぞの1シーンでさえ退路の確保に余念なき作りに興が冷める
今挙げた例としてのシーンもそうだが、とにかく主人公自身の能力設定までもが適当至極なので、ストーリーの都合上でバフとデバフが乱れ飛びまくっていて、あれは出来てこれは出来ないなどの線引きが、原作者の真骨頂であろうシュールギャグ目線での匙加減でなされるものだから、シーンのジャンル定義が曖昧な場面では、可か不可かへの言及に「どこまで本気で言ってんの?」という不信と不快感がつきまとう
おまけにフリーレンは千年以上も生きているのに、未だに、精神未熟な若年層が己に対する厳然たる他者からの評価から逃れる為に捏造する、幼児キャラ自演という姑息な武装じみたひらりマントが機能しているかの如く振る舞うので、見ている側としては「何でアンタが今ソレやんのよ?」としか思えない
もう散々人間がそれやってんの見て来たんだろ?
恥ずかしい奴だなぁ、って心中呟いて来たんだろ?
そんな事やっても査定は甘くはならない事、死ぬ程わかってるよね?
現実に、いい歳こいてそんな自演してる人が「人間とは…」なんて仮初にものたまったとして、それを聞いた周りの連中は「お前だよ!まずお前!省みろ!」としか思わんから
若い子向けのおべんちゃら演出なのは重々承知だが、永く生き過ぎて冷め切ってる筈のフリーレンの採る態度ではないよ
親しみやすさ、作品への入りやすさの欲しい制作の安直さを、プラスには解釈できない
かと思えば、エクスカリバー的な剣が突き刺さっていた剣の里で、ヒンメル自身が過去にそれを引き抜けなかった事、そして里人がそれを隠している事、隠しておいた方が都合がいい人もいる事、そして最後には全く違う話になってしまう、だのとフリーレンに説明させていたが、まだ人を知る旅の途上の序盤なのに、どうして急に人を見る目にブーストが掛かって、利いた風な事をちょっと自己陶酔気味に語らせて、カッコイイでしょ演出かまして軽くドヤってんの?
今から人の所業を見て気付くんでしょ?
ヒンメルゆかりの地を巡る聖地巡礼に関して醸成されてきた経済活動のマネーフローに与れなくなるとか、ヒンメルの事績を都合良く自分達への正統性付与の方便としている政治結社の面目なのか、彼らと結託して私腹を肥やしている宗教界なのか
それとも剣の里以外のあらゆる都や村落でも、組織のアイコンとして奉戴の対象となっているのか、一演目の無くなる吟遊詩人らの実害なんてのもあるのかもしれんが、その地その地で手ぐすね引いている彼らの、ポジショントークやら我田引水やら、慇懃無礼な、陰に陽に蠢く人間らしいあれやこれやを見るんでしょ?
なんでもう全部解ってる事になってんだ?
あとは想像してください、って…
それを描くのがアンタらの仕事だろ?
キャッキャウフフに大量に時間は割くくせに、面倒な仕事はパスで視聴者に「脳内補完よろw」なのか?
馬鹿にしてんのか?
このように、魔法的な技術力のインフレとデフレだけでなく、個としての存在や、徒党を組んだ「人間の業」のようなものさえも、あたかも神の視点で看破しているが如き達観ぶりを、ここら辺りで入れときゃカッコいんじゃね?くらいのノリですげ入れてくるものだから、そのクワッドターボエンジン瞬間換装の主人公アゲを見せられて、それならもう充分だろ…と、そのテキトーさに脱力する以外にない
でありながら、二時試験終了後には、ハイターの形見である粉砕したフェルンの杖に関して、捨てちゃえば?と無神経にフリーレンに言わせたりして、「このギャップ、チャーミングでしょ?」と言わんばかりのこういった媚びた演出で、フリーレンの人を見る目の達観度合の整合性の無さの「隙」というズラシの演出を重複、さらに、諸々コマゴマしてるくせに雑な設定であるというそのありよう自体をギャグめかして見せるという、レイジー具合を絶えず漂わす「隙」の飽和常態化で、見る側へ無意識的に「作品全体に整合性が無かろうが別にどうでもいいか」的な甘い判定基準を醸成させるサブリミナル効果に近しい機能が働いて、本来なされるべき作品総体のクオリティに対する良し悪し峻別の、その対象外となるように誘導する、己に都合良くミソッカス扱いをしてもらおうという、譴責回避意識に長けた末っ子の小賢しさのような、エセ大作で何が悪い?の開き直りとも採れるエクスキューズ演出が、ユルいきらら的基本線の固持と言う形であちらこちらに散りばめられている
少し前まではよく目にした、議題に即して自分に都合よく先進国と発展途上国の立場を使い分ける、外交の丁々発止の場での中国の抜け目のない立ち回り方のようで、正直、見ていていい気はしない
これがくだんの「逃げてないで勝負しろ」と言いたくなるこの作品の作風、構成の本質である
充分な余力がありながら、第一等の厳しい規制、規範意識、スタンダード遵守の責務からはなんとか逃れようとする、お目溢しを乞う狡猾さに辟易する
ギャグとシリアス
人間を看破する能力の有無
魔法使いとしての能力の有無
あと、政治的コミュ力あたりもそうか
それぞれのキャストのそれらの要素が、とりあえず自転車で走り始めてしまう原作者の、ざっくり過ぎるプロットにどうにか適合するようにと、辻褄合わせでテキトーにチマチマと捏ねくり回して、くっ付けたり押し付けたり、ちぎり取ったりまたくっ付け直したりして、なんか知らんけどとりあえず形にはなっただろ、ふぅー、みたいな、そういった連続を只々見せられ続けている気がしてならない
それで、
あ、そうだ、いけねいけね、って、どっかのフィクションで見たそれっぽいことをヒンメルに情感たっぷりに語らせて、おし、おk。なのかも、と
なので朝令暮改かも知れんが、きらら的ギャグ基本線のルーズさが、真正面からの渾身のストレートを柳に風と受け流すその様は、明鏡止水の巧まざる美なのかも知れない
ある意味天然か
とにかく、都合のいい二枚舌、ダブスタ、トリプルスタは当たり前の、マルチスタンダード上等、しかもそれが複数要素でなされるので、もう好きにやれよ…と見る側が投げやりになってしまう
冒頭に書いた「禍根をほったらかしにしての凱旋成立」の矛盾と並ぶ、作品全景に関わってくる設定上のデカい矛盾点だけど、「魔族は魔力を隠蔽しない」というそもそも論も、その説明がなされた回の中ですぐに馬脚が現れてしまうという体たらくだった
故郷を侵攻した魔族の一将軍とその配下の軍勢は倒したものの、独り生き残り、孤独となって青息吐息でその場にうずくまるフリーレンを、通りすがりで邂逅したフランメが気に入り、弟子にしようとおんぶして連れて帰る、その道中での会話内でフランメに説明させていた場面
「魔族には魔力を隠そうなんて考えは無い、その大小、優劣が彼らの社会でのヒエラルキーを形成する判断材料になっている、それはプライドや財産そのものである」みたいな事をフランメに喋らせていたけど
その時に、先遣隊の壊滅を知ったであろう追手の魔族が数人、フリーレンらを付けてきたが、彼らは魔力を隠蔽してたよね?
「魔力を隠して自分達を追尾し、敵が魔法使いだと知るや己の魔力を誇示して戦いを挑んでくる」
そんな感じで、四面楚歌な眼前の状況を、はっきりとフランメに説明させてたよね?
「魔力を隠す事もできないし、そんな発想自体を持つ事も無い」
そんな説明させといて?
当の魔族自身が、明明白白、魔力隠蔽の有用性をよくよく理解しての追尾だったんでしょ?
誰が見てもそうとしか解釈できないはずなんだけど…
フランメの供述が同一回に二転三転してるのに、雰囲気だけは、間違ってませんけど何か?的な開き直り感
後々の回での齟齬の浮き彫りならまだしも、同一回での論理破綻に首を傾げる他無かった
この流れで言及するなら、そもそも断頭台のアウラと初めて、ヒンメルらと共にフリーレンが戦った時、作品内では止め絵でしか描かれていなかったが、フリーレンも勿論、攻撃魔法を放ったんでしょ?
だったらその時に隠蔽していた魔力は否が応にも露見した筈だよね?隕鉄鳥捕獲試験の時に、腕を動かすだけでも隠していた魔力は露わになるだのとフリーレンがラヴィーネに説明していたんだから
その設定は無いことにして、1世紀近く経った後の2度目のアウラとの戦いの、その雌雄を決するギミックが、「アウラは最期までフリーレンの魔力隠蔽に気付く事が出来なかったからでしたーチャンチャン」というのでは流石に雑に過ぎる
その矛盾を取り繕おうとする、あのシーンでの劇伴の壮大無比さも、製作への不信感に拍車をかける
とりあえず豪壮な音で誤魔化しときゃなんとかなるっしょ、というプロ意識…
作品の時間軸では現在時点でも、これほどのリーサルウェポン感をもって演出したのに、フランメがフリーレンに強いた「魔族を欺く為の魔力隠蔽」、その習得を果たした事実のプレミアム感でさえ、後の展開ではいつの間にか立ち消えになった雰囲気さえある
フェルンは生来その資質に恵まれていたとの説明は序盤からあったが、くだんの隕鉄鳥案件ではカンネやラヴィーネ辺りまでもが、自分達の捕獲した鳥を奪取しようとする他パーティの目論見から逃れるために、デンケンでさえ感知できない程の魔力隠蔽を実践できてしまっていた訳だし
あんなに走り回っていたのにね
この辺りの、エクスクルーシヴだった一能力へのバフとデバフのテキトー感…
もひとつ挙げるなら、アウラ配下のリーニエ
過去にアイゼンと遭遇しその戦い振りを観察、時を経てシュタルクと対峙するや、アイゼンスタイルを模倣、実践して戦い、驚かせていたが、そのカラクリが、相手の体内で動く魔力の動き方を認知し、自分の中の魔力をその型に準える事で、肉体的なアクションもコピーできる、などのような説明だったが、そもそも戦士、ドワーフに魔力?
生命の根源的なものとしての「マナ」という概念ならばまだ飲み込めるが、寡聞ではあれど、今までこの手のキャラ設定に魔力保持という属性を見聞きしたことが無かったと思うし、違和感が強い
確かに北欧神話においては、エルフの対存在としてのドワーフであり、当地の言語では文字通りの「闇のエルフ」「黒いエルフ」として、あまり良い属性ではないものとして伝承されて来た存在ゆえ、彼らが魔力、魔法の類を弄ぶものとして、当地の人々の不文律に含まれていた時期もあったのかもしれないが、今時分のファンタジー観にはイマイチ収まりが悪い
ただ、神秘的な力の宿った武具や装飾品を作る職人としての属性は確かにあるので、その引用、翻案としてのスピリチュアリティ、霊性ということか
生命力にドライブが掛かった時に体内でほとばしるかのように言及されたこの場面での魔力だが、それがドワーフ故だったのか、それとも、その限りにあらず、この世界線では動植物の別なく、生きているものには遍く魔力が宿っているとの設定の示唆なのか判然としないが、どちらにせよ基本事項としては軽軽には扱えないだろうと思われるこの決め事が、常に作品の土台として機能しているのか、前科だらけなので甚だ怪しいところではある
まぁそれ以前に、あれだけリーニエにざっくりと深く抉り取るように肩口を戦斧で押し潰し切られ、腰骨辺りへも躊躇いなく斧刃を横殴りにぶち込まれたのに、何の不自由もなく立ち上がって、つかれっしたー程度のバイト上がりのノリでバトルシーンを終えてしまうシュタルクの描写に、命の軽重の話なんかをこの原作者が「やらずに死ねるか」くらいのライフワーク的テーマとして捉えていない事がよくよく伝わってくる、物理的制約皆無のシーンだった
厳然たる物理的制約、限界の無いところなんかに、人間の喜怒哀楽なんて、有り得る筈も無いんだから
こんなことファンタジーに言っても無粋だとはよくよく解ってるけどね、あまりにもなぁ、と
よくて一生寝たきりだよ、あんなの
生きてんのが変
これも監督言うところの「大事にしたい隙」ってんなら、どんなに雑に仕上げても何とでも言い訳が立ってしまう、ホント八面六臂のコンセプトだなと思う
貶してばっかもあれだから、ひとつ、このシーンで良かった点は、城郭上で戦っていたリュグナーとフェルンのバトル中、やや大きな爆裂が発生し、その衝撃波が四方に伝播、少し離れた城郭外の草原でシュタルクと相争っていたリーニエの髪が、その風圧を受けてフワッと舞い上がり靡く、そのタイムラグの見せ方
これはアニメじゃなきゃ出来ない事だと素直に得心したよ
いい表現だった
他には、フランメが、共に過ごし始めた頃の幼いフリーレンに言い聞かせていた「お前は魔族を欺くんだ」と諭す場面
猥雑な市街地の路地に面して向かい合う家並み、物干しのために路地上空に懸け渡すジグザグと走るロープ、そこにはためく洗い晒しの洗濯物の白と快晴の青のコントラスト
で、そのロープと洗濯物が作る、暑い季節の濃い影を受けて、フランメから教えを受けるフリーレン、という構図
ここは情緒があったし、喧騒が遠のくような白昼夢感があったり、都市国家的牧歌性があったりと、豊かな表現だったよ
個人的には、どんなにダイナミズム溢れる格闘シーンよりも、普遍性かくあるべしとヒンメルの言葉を思い出すシーンよりも、見る側にこれといった正解も押し付けて来ないこのシーンの豊かさが、今作の今タームでは白眉に感じられたかな
まぁフランメの説明した魔族の属性に関する矛盾には目を瞑ってね
あと、基本的にゼーリエの登場するシーンでは、制作が腐心して取り組んだからか、張り詰めた空気を画面に保持させ得ていたのて、そこも評価したいところ
基本、余計な劇伴を極力付けないよう配慮していたし、その演出も含めて扇情、阿諛追従に靡き得ない、人事圏外の天網恢恢キャラの鎮護感を表せていたと思うよ
キャラデザも、男女の別のない両性具有みたいで、大人でもなく子供でもなく、見た目も特段美しい訳でもなく醜くもなく、個性的な目元からしてブサカワ犬のような愛らしさで、うまく考え付いたなぁと思う
CVの伊瀬茉莉也もやっぱりホント適役で、男声女声どちらにも採れて、自信も微動だにせず、かといってどこか脆く儚いものも含ませていて、他作品含めた最近のキャラの完成度としては出色かなと思う
性格も、争えない好戦性がいかにも神話の神々の、出鱈目で享楽めいた残虐性を醸していて、でも基本穏やかで、ギークめいた過度な知識欲が「遊びをせんとや生まれけむ」を地で行くエピキュリアンで、ホント言う事なしかな
バーリトゥードも黒魔術呪い殺しもバッチコイな、両刀使いな感じもあるし
ホントうまくパッケージングできたと思うよ
ただ、最終話のフェルン以降の受験者との面談、合否通知の辺りからは、砕け過ぎてしまった
この世界は良くも悪くもキャッキャウフフがデフォで、しかも肝心の主人公もあの有り様なので、この世界の折り目を正す嫌われ役は、今のところゼーリエに担ってもらう以外にないから
そこを崩すと取り留めの無い弛緩が支配的になって、だらしないだけになる
最低限、甲子園目指してる感は留めておかないと、何やってもピリッとしない
理不尽な圧倒的権威は、特にこの世界には必須に思う
皆だらしなさ過ぎるので
なので、あんなに一級魔法士として合格させてしまったのはウーンだった
しかも面接を受けてる受験者もナメた口利いてるし
ひとりくらい癪に触って、容赦なく惨殺するくらいしても別によかったんじゃないかと思えたし
それで、「あーあ、やっちゃったよ…」って、フリーレンにボヤかせるとかね、やると思ったよ的な感じで
そんぐらいの、畏怖至極の取巻に地雷源を探り探りさせるご無体感があっても、神に準ずる立場ならば適った属性だし、緊張感を維持できていた辺りまでの演出ならば、安っぽくもならないだろうし
まぁもうきらら化させちゃったから後の祭りだけど
ここの抜け感、ゼーリエのデバフは要らなかった
豪胆柔和な微笑と裏腹のうすら寒い恐怖支配は堅持してもらいたかったところ
フェルン面接時に、いつもの逃げ腰ギャグ路線を軽く噛ませて来たから、嫌な予感は無かった訳でもなかったけど…
初放映時の27話は見逃していたので知り得なかったけど、ゼーリエはレルネンに軽く発破を掛けていたのね
いつもの気まぐれじみた唆しだけど
でも確かにそれなら、余生で一番若い今が時と、そう思い立つのも無くはないか
フランメ以降、名を成した人間の弟子を育てられなかったゼーリエが、他人との四方山話の中ででも、何かを達成できた弟子の話題を肴にでもして、無聊を慰める一助にでもなれば、と、それくらいの捉え方なのか
指導者としてのゼーリエの能力に疑問符のつく、その世論への危惧なのか
セリフの額面通りに、大成せずに死んだ弟子などすぐに忘却して、思い出と戯れる意識さえ喚起されない孤独にゼーリエが苛まれる事への、申し訳なさ、か
とりあえずゼーリエも可愛がった弟子のために、「あの人思ったより強かったんだな」と、良し悪しはどうあれ、時代ガチャで活かし切れなかった潜在力の証明を世に知らしめて、過小評価の誤解を払拭し、取るに足らない寿命の鼻向けくらいにはしてやりたかった、という親心みたいなものか
まぁ一応筋は通ってるね
魔法オタだし、弟子がいようがいまいが、幾らでも籠って探求して暇潰しに明け暮れ続けられそうだし、おもろいおもちゃ見つけた、って、既に魔力隠蔽揺らぎ看破では人間で暫定第一等のフェルンを遊び相手に指名していたしで、相変わらずの気まぐれ具合だったけど
ゼーリエと弟子との関係性の辺りは、この作品では唯一興じられる部分なので、スピンオフものでゼーリエ中心の話でもあればいいなと
セリフのやりとりも静謐、行間は豊かと、悪く無い演出だし
劇伴にも頼らないし、逃げも無いしね
まぁ、これが出来るのなら何故このレベルを基本線にして、大人もそれなりに楽しめる作りとしてくれなかったのか、とは思う
ずっと張った状態での創作は原作者にはしんどいのかもしれんが
あと、今作、今タームの次点優良キャラはリヒターか
特にデンケン、ラオフェンとのやりとりはコミックリリーフとしては秀逸
花輪さんの演技は過不足、無駄がなくて、聴いていて心地良い演技
「完全にお爺ちゃんじゃねえか」は笑えた
自営店で昔馴染みの婆ちゃんのランプを直してあげてる時の、ちょいメンド臭そうなフリしてなんかポーズ取ってる感じの演技も秀逸
この時に絡んだ婆ちゃんを演じた片貝さんも芸達者
ホント些細なシーンだったけど、リヒターの人となりが解って豊かな表現
中年の焦燥や諦めや希望のない混ぜのペーソスも示してくれていた
ユーベルが、ラントが手にして読んでいた二次試験案内の書面を大袈裟に覗き込んでくる可愛らしさも、一瞬だけど、なんとなく不器用なアプローチで悪くない表現
あとはゼンゼのキャラデザと器用な髪くらいか
いかにもな、アルストノリア的キャラで能力もそんな感じだけど
もっと詳しい人は適切なルーツキャラ指摘ができるんだろうけど、自分が思い及ぶのはそこら辺くらい
ただ、あんまり利いた風なセリフは似合わなかった
言葉が上滑りしていたし
そこまで一家言ある何かを求める造形でもなく、天然を通した方がらしさが活きた印象
4コマ漫画やアイキャッチ、おまけCパートあたりで髪ネタをやると映えそう
頭に隕鉄鳥が乗っかった時なんてまんまそんな感じだったし
メインパーティの3人のちちくり合いは、正直イマイチ
同じネタが多いし、シュタルクのセリフ内容や言い回し、会話に入るタイミングなどが、後半辺りからかなり雑になっていたのでマイナス
正直、面白味は無く、若い子にかわいー、と言わしめたい、推しキャラ化促進に特化したあざとい演出がフリーレンとフェルンには多かった印象
あくまで冷徹なビジネスマインドが如実
なので、見ていると寧ろ引いてしまう
あと、疑問点として、国を動かせる程の宮廷魔法使いになれたと自負していたデンケンの、それでも2級じゃ故郷に帰れない設定
幾らでも融通を利かせられそうだけど、最後の討ち漏らし七崩賢のご都合関連か…
それと、デンケンの妻、「政争に敗れた辺境伯の令嬢」とか言ってたけど、原作者、暗闘に負けて辺鄙なところに追いやられた伯爵家、だなんて流石に思ってないよね?辺境伯は普通の伯爵よりか寧ろ格上だよ、馬鹿にし過ぎかもしれんけど
シュタルク幼少時の、故郷で期待されていない体での、父親からの兄弟間格差待遇のお約束の忸怩シチュも、メインどころなのにざっくり過ぎだし、なろう定石で良しとするカルテスエッセン感でいいのか?と
あと、フォル爺、呆けたとはいえ現役で体張ってあの村落をまだ守ってくれてるんでしょ?
でっかい魔物倒してたし
なのに、出自とか、何でここを守ってるのかとか、誰も知らないだのと村人に言わせてたけど、んなわけ無いから
本人の動機はどうあれ、住人は感謝しかない
最低限、村の爺さん婆さん辺りはどう考えても知ってるし、口伝で伝わり続けてるに決まってる
いつもお裾分け持って行って、ありがとうって感謝して、寝物語で子や孫に話しとるわ
どんだけ薄情なのよ
現代の大学や事業所の守衛さんみたいな感覚で扱ってんじゃないよ、マジで
おまけで、フリーレン、なんとなくであっても何かヘイトが集まりがちな印象があるのは、キャラ設定が基本ヤレヤレ型だからでは?
これは絶対的な判断じゃなくて、今作が世に出るまでに散々なろう界隈からこの手のチートヤレヤレキャラが百出して、原作ファンダム以外の第三者からは総スカンされる、1話切りの判断材料の指標として確立された素地が、既にガチガチに踏み固められた後だったからだと思われ
年長者に過ぎて、周りが粗の塊にしか見えない設定だろうから、キャラ考えてた時点でヘイト反応も想定内だろうけど
見返してよくよく感じたけど、やっぱりフリーレン複製体との格闘シーンはドラゴンボールそのもの
エネルギー体放出の物量感、それを放ってる時の醒め切ったフェルンの無表情、睨まれた眼力だけで体をくの字に折り曲げられて衝撃波込みで吹き飛ばされるサイコキネシス、その直線的な吹き飛ばされ方からの壁面衝突における大友克洋考案の半球体的陥没かつヒビ割れありの身体めり込み、圧倒的物量のエネ体放出の絨毯爆撃による対象攻撃後の土煙モワモワ、からの空中にいた攻撃者のゆっくり様子見着地の足元クローズアップを後方低位置カメラ視点で、からの土煙次第に晴れてきての攻撃対象ノーダメージ判明かつケンシロウ的ゆっくりこっちに接近演出
潔い、ホントにプライドも何もない潔さ
何言われようがチャラヘッチャラ
これも、笑ってください的な「隙」演出か
めり込んだフェルンが「こ、これが、魔法の高みなんですね…」に失笑
落差が大き過ぎるって
「勇者ヨシヒコ とびっきりの最強対最強」って、成立すんのか?
これじゃ限サバマダァ?(・∀・ )っ/凵⌒☆チ○チ○ だよ
このバトル路線はホントは原作者はやりたくないようだとも聞いたので、「連載続いてこそ」の提言を受け入れた不承不承の採択なのかもしれんが
劇伴は、改めて聴いたら結構多彩
よく聴いたらジャポニスムテイストもあったりして、1周目は気付けず
ここぞの盛り上げはフィドルの疾走感を活かしたアイリッシュ傾倒オーケストレイションで、今作の脆弱なストーリーの完成度をどうにかこうにか支え続けてくれている、劇伴におんぶに抱っこの至れり尽くせり感は否めなかった
取り留めのない唐突展開、思い立ったが吉日のシェフの気まぐれサラダがデフォなので、特に前半まで、おそらく原作者の本来目指していたであろう路線、現役の渦中でのドサクサでの見落としを、国破れて山河ありと近しいリタイア後の「凪の中に見出す普遍性の気付き」という滋味の反芻、言うなれば自分の足跡トレーシングによる当時の至らなさの反省、みたいな、そんなジュニア層には刺激の乏しい機微の確認作業の連続なので、週刊の大手少年誌ではちょっと毛色が違うよな、とは思う
もういっそ「50代からの私たち」かなと
リタイアで持て余した時間を、今日はここ明日あそこと、ライフステージ毎に濃密な時を過ごした思い出の地巡りを、その日の気分で繰り返している体裁なので、シニア層には「染み渡る感」にアジャストしやすいが、ジュブナイル層にはイマイチピンと来ないだろうから、やり過ぎのクドいくらいの劇伴はヤングアダルトに対するアンプリファイアみたいなもんかと思われ
後追いでもヤードバーズに興じられた世代には、折り返したキャリア後半のそのワンスタイルにも、好悪はあれど理解はできようが、ボカロ系しか興味ないわ界隈がド渋いアンプラグドクラプトンに触れたところで「なんか古いね」くらいにしか反応しないのだから
なので、ゼスチャーや豊かな表情を用いてのコミュ力ブーストが如く「ここは感動するところです」と、劇伴が手取り足取りリードしてくれている体とも採れる
それがこの作品の、無粋の極み、なんだけど
そんなプロットが一級魔法使い試験のところからガラッと変わったので、それまでのシニア向け路線の評価がマーケットでは芳しくなかった故の担当編集のテコ入れか、あるいは、アニメ化を企図する製委のアドバイス、注文、強制、いずれか判らんが、ここ数年で無視できないボリュームゾーンと化した「なろうクラスタ」へのチューニングを試みた改変へと、おそらく原作者が折れて、舵を切ったものと思われる
だいたい、もう魔王も倒しているのに、なんで今更なろうテンプレの格付け試験をここまでフィーチャーするのか、一案件として挙げるスケールとしては違和感が強かった
元々の、「木を見て森を見ず」路線にはしたくない、あくまで常識人のハッとする気付きを大事にしたい原作者の意図とは、あまりに対極な宗旨替えに映ったので
それで半ばヤケになったのか、辻褄合わせや整合性確保の放棄に等しい、雑な仕事になってしまった
寧ろ改変への抵抗の姿勢としての、あのクオリティダウンなのかと思えるほど
もともと細かい設定ありきでのスタートが得意ではない感じはあったが
あるいは、それより前、七崩賢アウラのくだりから、既に担当編集と製委の意図が押し付けられたようにも思えなくもないが、本来はあんな仰々しいバトルにはしないで、アウラとの会話劇で新たに気付きを得る、静かな構成にしたかったのが本音かもなぁ、と
だから、リュグナー、リーニエ、ドラートとも勿論争わないし、寧ろ新しい生き方を模索する彼らを見て、フリーレンが何かを思う、とか、そういう流れの方が序盤の趣きからしてスムースで違和感がない
そう思うと、大資本のマネタイズありきの策謀で、ライフワークとしようと思っていたかもしれない原作者の虎の子が、好き勝手にいじくられて、見る影もない別物にされた案件とも採れなくもない
原作者の度重なる休載がそれとなく聞こえてくるが、大事に始めたコンセプトがこんな形になってしまって、気持ちの面から体調不良になっているのかと、勘繰りたくもなる
「一級試験を別に受けなくても北部へは海路で行ける」だの、初めて訪れたオイサースト魔法協会支部の受付で、すったもんだしながらフリーレンに供述させていたが、金がないからダメになった選択肢だったかと思うが、見てる側からすれば「え、行けんの?」だし、意図的な穴、落ち度、詰めの甘さの敷設で、やっぱりレジスタンスなのか?と
本来のプロットは、バトルなんて一度もなくて、ヒンメル一行で過去に踏破し、今は古戦場となった思い出の地を巡り、そこでの経験とパーティの言葉を思い出し、新しく連れ立っているフェルンとシュタルクの言動やら、その地の民の言動に重ね合わせて「あぁ、ああいうことだったんだ」の繰り返しをさり気なく体験、実感させて行きたかったんでしょ
それで最後に、魂の眠る地オレオールつまりヴァルハラで、魂つまりエインヘリャルとなったヒンメルと再会する

